写真:ホンマタカシ ヘアメイク:村上綾 文:加藤孝司 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
Sounds of Tokyo 35. (Birdsong in Inokashira Park)
15歳でアメリカに留学するまで、 吉祥寺が私の世界のすべてでした。
吉祥寺で生まれ育って、 学校も4歳の時から通っていたクラッシックバレエ教室も家から徒歩5~10分の場所にありましたし、 友達と遊ぶ公園もお買い物をする店もすべてが家の近所に揃っていたこともあって、 子どもの頃は殆ど吉祥寺から出たことがなかったんです。
だから東京で育ったわりには他の街のことは知りませんでしたし、 ましてや “都会っ子” という自覚はなくて。
吉祥寺って駅周辺は人が多くていつも賑わっているのですが、 私の家の近所は本当に静かで、 暮らしている人もどこかのんびりしていました。 都心から離れているイメージがあるのか、 今でも友人を 「今度、 地元に遊びにおいでよ」 と誘うと 「遠いからちょっと」 と言われることがあるんですよね(笑)。
吉祥寺の風景としてまず頭に思い浮かぶのが、 井の頭公園の中にある井の頭池。
両親が共働きだったので幼い頃からおばあちゃんと一緒に過ごすことが多かったのですが、 一緒にお弁当を持って行って池のほとりで食べたり、 隣接する 「井の頭自然文化園」 に行くのも好きで。 あと、 ゾウのはな子さんに会いに行くのも楽しみの一つでしたね。
小学生になると、 行動範囲が少しだけ広がりました。
井の頭公園の東側にある三角広場に行ってドッジボールをしたり、 中学生くらいになると駅前の方に友達と一緒にプリクラを撮りに行ったり。
小さな頃と変わらず、 学校から帰ったらまずおやつを食べて、 バレエ教室のある日は教室へ行って……。 行動範囲が広がったといっても、 吉祥寺の中の話ですね(笑)。
中学2年になってからは、 本格的にバレエを学ぶために横浜のバレエ教室に通うようになりました。 駅から京王井の頭線に乗って、 渋谷で東横線に乗り換えて横浜へ。
それまで吉祥寺という温室でぬくぬくと育っていた私は、 新しい世界に触れて毎日ヘトヘトになっていた記憶があります。
思い返してみると、 自分が日々見ていた風景や日常の真ん中にはいつも井の頭公園がありました。
春の桜からの新緑、 夏の元気なセミの鳴き声と青い空、 秋には木々が色づいてすごく綺麗で、 冬に雪が降り積もると幻想的な景色が広がります。
こういう自然の変化や移り変わりを日々身体で感じて育ってこられたことは、 自分にとってすごく良かったなと思っています。
私、 物心ついた時から反抗期だったんです。
バレエは一生懸命にやっていたけど、 性格的に気難しくてわがままで、 親からも 「あなたは、 笑っているか怒っているかどちらかだね」 と言われていたような子どもでした。
でも今になって思えばそれは、 芸能の仕事をしている両親は私が赤ちゃんの頃からどうしても不在がちで、 小さいながらに 「もっと一緒にいたい!」 という不安な気持ちから来ていたものだったんじゃないかな? って。
その一方で、 とても恵まれた環境で育ったという意識もあります。
いつも面倒を見てくれていたおばあちゃんや家に来てくれていたシッターさんはとても優しくて、 いつもそばにいてくれて。
でもある時から、 「このまま大人になってしまったらまずいんじゃないか?」 という危機感を持つようになりました。 「このまま慣れ親しんだ吉祥寺でぬくぬくと生活していてはまずい」 と、 本能的に感じたんです。
将来は、 クラシックバレエのプロのバレリーナになりたいと思っていました。
でも、 中2の時に出会ったバレエの先生に 「あなたはこのままではプロになれない」 とはっきり言われたんですね。
先生の言葉も一つのきっかけになり、 一度厳しい環境に身を置いてみようと15歳の時に一人で海外に行くことを決めて、 アメリカのボストンに2年、 その後カナダのカルガリーにバレエ留学をしました。
それまでは常に誰かが気にかけてくれるような毎日でしたが、 練習の時間以外はいつも一人。 自分で主張しないと、 誰も自分のことを気にかけてすらくれない。 それがすごい衝撃でした。
最初の2年間は本当に孤独で、 けっこうなホームシックで。 度々お母さんに電話をしては弱音を吐いていましたね。 「じゃあ、 帰ってくる?」 なんて言われながら。
そういう環境に身を置いたことではじめて、 両親が働いていてくれているからこそ留学ができていることもそうだし、 大好きな兄や姉、 猫がいる温かい温室のような家で育った自分はとても恵まれていたんだということを実感しました。
19歳の時、 プロのバレリーナになることを諦めて日本に帰ってきました。
その時の気持ちですか? ホッとしながらも、 まだどこかで諦めきれずにいる自分もいましたね。
日本を離れる時とはまた別ものの、 “焦る気持ち” を抱えるようにもなって。
両親が役者であることを意識して、 小さな頃から 「私はお芝居はしない」 と思ってきました。 でも自分なりの試行錯誤を経て、 自然なかたちで演じることへの興味が生まれてきたんですね。
今は、 ずっと抱えてきた思い込みを乗り越えられて良かったなと思っています。
日本に戻って、 吉祥寺を離れて一人暮らしをするようになって思ったのは “都心には緑が少ない” ということでした。
私のそばにはいつも井の頭公園の自然があってそれが当たり前だと思っていたけど、 それはとても恵まれたことだったんだなあと。
もちろん公園なので人の手で整備された自然ではあるのですが、 土があって、 木があって、 いろんな鳥たちがいて。 自然を肌で感じることは生きていく上でとても大切だけど、 それができるのは当たり前ではないのだと痛感しました。
大人になって自然の大切さに改めて気づけたのも、 自然が豊かな吉祥寺で生まれ育ったことが影響しているのかもしれないと最近特に思うようになりました。
吉祥寺と私の関係を言葉にするなら「親子」、 なのかもしれませんね。
大人になった今でも “大きくなったねえ” といつも優しく見守ってくれている気がします。
東京そのものに関しては……好きでもあるし、 嫌いなところもある。 まさに 「Love & Hate」 という感じです。
最近読んだ本の中で、 解剖学者の養老孟司さんが 「都市に住む人が自然を排除しようとするのは感覚を通して世界を受け入れないからで、 それ故意味のないもの、 分からないものを徹底排除しようとする」 というようなことを書かれていました。
もしもそれが人の心の在り様にも影響をして、 意味のあるなしでものごとが判断されるとしたら寂しいし、 怖いことだと思っています。
考えてみたら、 昔は東京にも家の前に誰でも座れるベンチが置いてあったり 「ドラえもん」 に出てくる空き地のような、 “誰のものでもない場所” や “これといった意味のない場所” が沢山あったと思うんです。
でも、 そういう場所がどんどん無くなっている気がしませんか?
俳優の仕事をはじめて、 もうすぐ8年目に入るところです。
一人の人間として健やかに生活をしていくために、 まずは “日常“ をしっかり整えたいですね。
ごはんをつくることや友達と過ごす時間、 植物を大切に育てるといった日常が、 俳優の仕事を含めすべてに繋がっていくと思うので。
石橋静河 Shizuka Ishibashi
1994年生まれ。 東京都出身。 2015年の舞台 『銀河鉄道の夜2015』 で俳優デビュー。 初主演作 『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 では、 第60回ブルーリボン賞新人賞ほか多数受賞。 ほか映画出演作に 『きみの鳥はうたえる』 『あのこは貴族』 などがある。2023年は、 ドラマ『探偵ロマンス』、 舞台 『桜姫東文章』 など、 幅広く活躍。
東京と私