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猫と男 東京で生きる男と、共に暮らす猫。ふたりの距離感から垣間見える、唯一無二の物語。

対談企画:猫と写真家
〜東海林広太さんの場合

今回は、2匹の猫と共に暮らす写真家の東海林広太さんをゲストに迎えた対談企画をお届けします。テーマは「被写体としての猫」。数ある被写体の中で、東海林さんにとって「猫」の存在とは?

写真:東海林広太 聞き手・文:加藤孝司 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)

Profile
東海林広太 ko-ta shoji
1983年、東京生まれ。アシスタントを経て、2007年にファッションスタイリストとして独立。2014年より独学で写真をスタートし写真家として活動。現在は、作家活動からコマーシャルまで国内外を問わず幅広い媒体で活動している。
http://ko-ta-shouji.com/


猫を撮る、ということ

猫

東海林さんが愛猫の写真をポストするInstagramアカウント(@hikari_to_ao_to_inori)をはじめたのはいつですか?

一年くらい前です。僕は写真を生業にしているのですが、本業と比べるとラフというか、“猫との日常”という感じの写真をあげています。

「光」と「祈」そして「青」、3匹の猫が登場していますが、これまで作品として猫の写真を発表したことはあったのでしょうか?

何度かありました。実は3年半前に光を飼いはじめるまでは動物を飼ったことはなくて、一緒に暮らすようになってから撮りはじめたという感じです。
猫
光(ひかり)。東海林さんがはじめて一緒に暮らした猫。4歳。
猫
青(あお)。光のあとに東海林家に来た猫。透き通るようなブルーの目が美しい白い猫。病のため2歳で亡くなった。
猫
祈(いのり)。オッドアイが不思議な魅力を放つ白猫。もうすぐ1歳。

東海林さんの個人アカウント(@ko_ta_s)に投稿される写真は作品が中心で猫の写真の割合は少ないのですが、東海林さんにとって被写体としての猫、そして写真との関係を教えてください。

僕自身、生活の中で自分に近いものを被写体として撮り続けているのですが、猫が自分の生活にどんどん入ってきて、その割合が増えてきたという感覚です。一緒にいる時間が長くなるにつれて、猫たちが生活の一部になってきているというか……。

なぜそんなことをお聞きしたかというと、僕もデザインやアートのライターとして活動をしてきて、SNS上では仕事とプライベートをわけたいという感覚があったんです。猫はプライベートな部分で、「飼い猫の写真をSNSに投稿したら負け」と思っていたところがありました。自意識過剰ですよね(笑)。

なるほど。そういう意味では写真家として猫の写真を誰かに見せる場合は、写真としてのクオリティを担保させる、ということは意識しています。でもそれとは別に、純粋に「可愛いな」という思いもあって、生活をする上ではそういう気持ちの比率の方が多かったりするじゃないですか。猫専用のアカウントでは気軽にiPhoneで撮った写真もあげますし、僕自身も多少棲みわけをしているところはあるかもしれませんね。
猫
光と祈。

僕の場合、仕事とプライベートはわけたいと言いつつも、その結界はあっという間に崩壊したのですが。

わかります(笑)。でも加藤さんの写真は、猫もそれ以外もクオリティを担保していますよね。カメラも決めて撮っていますよね?

はい。気軽なスナップというよりは、日常的に部屋に三脚を立てて撮ることが多いです。東海林さんは、猫を撮るときはどんな機材で撮っているんですか?

自宅の至るところにカメラを置いていて、普段仕事でも使っているフィルムカメラで撮ることが多いです。中判のカメラでも撮りますし、35mmのカメラでスナップ的に撮ったりもします。特にフォーマットにこだわらず複数のカメラで撮っている感じですね。もちろんiPhoneでもバシバシ撮りますし。猫に関しては、機材にこだわらず感情優先で撮っていますね。

猫
光と祈。
猫
光。

なるほど。僕の場合は“ウチの猫は世界一可愛いなあ”とか、“こんな仕草や表情をするんだ、撮らなきゃ”とか、そんなことを思いながら日々ジャスパーの写真を撮っています。今お話があった、猫の写真を撮る上での感情の部分について、もう少し詳しく教えていただけますか?

撮る対象の「種類」について考える時、人や動物、静物といったものの他に、「撮る上で自分の気持ちが向かうもの」という種類のものがあると思っています。猫の場合は「夕陽が綺麗だから写真を撮る」といったように、感情を動かされて撮ることが多いですね。

わかります。ここ数ヶ月のステイホーム期間は家で猫と過ごす時間も多かったので、結構ストックができました(笑)。

僕の場合は家族を撮るような感覚、「記録」あるいは「衝動」にも近いかもしれませんね。

「日常のひとつ」としての猫

バルコニーと猫
光。

東海林さんの猫写真では、バルコニーでの写真が印象に残っています。写真家による有名な猫写真のひとつに、荒木経惟さんの愛猫チロちゃんの写真がありますが、その荒木さんの作品にもバルコニーが登場しますよね。

そうですね。荒木さんのバルコニーの作品がとても好きで。いつか広いバルコニー付きの部屋に住みたいと若い時から思っていて、現在の家に出会って即決しました。ですので、ある種荒木さんの作品へのオマージュのような気持ちもあります。広いバルコニーにパラソルとチェアがあって……、荒木さんの一連の作品を知っている方であれば、「こいつ、好きなんだろうな」と絶対に気づくと思います。今の家は、自分にとっても猫にとっても最高の環境ですね。

飼い猫を写真に撮るということは必然的に“自宅で撮る”ということになりますが、普段仕事で撮影をするポートレートやファッション写真とは違う愉しみがあるのではないでしょうか。

そうですね。写真を撮る時にはいつも、日常のちょっとした変化を捉えたいと思っています。はじめて訪れる場所やはじめて出会う人の場合は、もともと知らないからその変化にも気づきませんが、「繰り返すことによって気づく変化」ってあるじゃないですか? そういった意味でも、普段の生活や日常の範囲内で撮ることが、自分にとってひとつの「写真を撮る意味」になっています。

なるほど。

自宅で撮る写真には意味があるし、「撮りたい」と思う瞬間が多いんですよね。なので、猫に限らず僕が日常的に撮る写真は、花、オブジェ、バルコニーから見える空など、家に関するものがほとんどです。
猫
光と祈。
猫
祈。

猫写真以外の作品を改めて拝見すると確かにそうですね。

家で写真を撮ることはライフワークのひとつで、ここ数年はその中に猫の写真も入っている感じです。

時々Instagramにも登場する、窓辺のモビールの写真とかすごく美しいですね。

光や光の屈折に興味があるんでしょうね。

猫の瞳もガラス玉のように見える時があって、キラキラして綺麗ですよね。

カメラの仕組み自体がまさにそうですけど、もともと光が好きなんです。
猫
猫
祈。

東海林さんは猫にも「光」という名前をつけていますね。少し話が変わるのですが、写真の歴史において猫や動物はさまざまな写真家にとって重要な被写体となってきました。東海林さんは、「写真家と猫」というとやはり荒木経惟さんを思い浮かべますか?

荒木さんとチロちゃんの関係性はもちろん好きですし、写真家ではないですがバルテュスも好きです。バルテュスの作品には猫と少女が繰り返し描かれています。写真家ですと……荒木さん以外だと深瀬昌久さんでしょうか。

ですね。荒木さんもですが、深瀬さんの作品は僕も大好きです。猫ってどこか孤独な存在で、そういった意味では絵画でも写真でも作家による猫の作品は自身を投影している部分も見え隠れして、興味をそそられますよね。

深瀬さんは猫もそうですしカラスも撮っていて、最終的にはすべての被写体に対して自身を投影しているように思います。荒木さんに関してはとても好きなのですが、どこか良い意味でズルいと思う時もあります(笑)。チロちゃんや奥さんに物語性を転化して、その存在を利用しているようなところがあると感じる部分があって。深瀬さんと荒木さんは同時期の作家ですが、選んでいるモチーフに共通点があるのが面白いですよね。
猫
光。

確かにそうですね。猫を撮っていることもそうですし、漢字は違いますが奥さんの名前も同じですし、深瀬さんはある時別れてしまいましたがライフワーク的に奥さんの写真を撮っていますね。

そうそう。二人とも写真にペイントをした作品をつくっていたり。でも、わかりやすく物語に昇華させて作品をつくっていく荒木さん、すべて自分自身に投影させてどんどん内側に向かっていった深瀬さん、似ているけど実はものすごく対照的な気もします。そういえば、数年前にミラノで行われた深瀬さんの回顧展を見に行きました。ミラノなのに日本にいるような……すごく心が揺さぶられたというか、不思議な気持ちになりました。深瀬さんの写真は一点一点が強いんだな、ということを実感しましたね。

やはり猫と写真家というキーワードで思い浮かべるのは、この二人ですよね。

ほかにどなたかご存知ですか?

個人的には、1970年代から活躍している西川治さんという写真家の猫の写真が好きで作品集を集めています。実は一昨年、たまたま友人の紹介でお会いする機会があって、本にサインをしてもらったんですよ。

僕は作家ですが、町田康さんの作品が好きですね。たまに見返して読むと泣いちゃうんですよね。

思想家の吉本隆明さんも猫好きでしたよね。東海林さんの猫写真も単なる“日常の記録”を越えて、猫と人との関係を映し出していたり、写真作品としての強度を持ったものだと思うのですが、今後猫をモチーフとした作品を発表する予定はありますか?

実は、自分で鑑賞する用に束見本のかたちでまとめたものは一冊あります。光が最初に来て、そのあと祈なのですが、実は光と祈の間に青という子がいました。青はうちに来たときからウイルス性の病気を患っていて、うちに来て1年半くらいで亡くなってしまったんです。その頃に撮った写真で、小さな展示を組んだことがありました。

そうでしたか。

猫もそうですが普段から「日常」を撮っているので、ひとつにまとめるにしても“終わり時”がないというか。自分の中でどこがまとめ時なのか迷っている部分があって、作品として発表するにはもう少し時間がかかりそうです。でも荒木さんみたいにまとめ時も何もないというか、作品として発表する上では「毎日撮って毎日出す」みたいな感覚は大事なのかもしれないですね。そんなところも含めて僕は荒木さんの作品が好きです。ものすごい多作で、エネルギーがあって、しかも一枚一枚の写真が良くて強度がある。
猫
青。

常に撮って常に発表するというのは、作家のスタンスとして僕も共感します。今は展示だけでなくSNSなどで発表することもできますし、作品発表のツールが多様なのが現代だと思うんです。

そうですね。

“よくわからないもの”を追いかけて

猫と東海林さんの写真に話を戻したいのですが、猫の瞳ってとても不思議ですよね。視線の先に何もないように見えるのにじっと何かを見つめていたり、この世にないものを見る力が備わっているような気がします。見つめられるとこちらの内面を見透かされているように感じたり。だからこそ、そのまなざしには「儚さ」のようなものも感じて切なくなります。このような感じで“猫という存在が喚起させる感情”というものがあると思うのですが、東海林さんはいかがですか?

人に対してもそうなのですが、僕は“よくわからないもの”に対して魅力を感じます。理解したかったり大事にしたいとは思うけど、結局、自分もそうだし相手がどう思っているのかも究極的にはよくわからない。そういった部分で、人と動物は同一だと思っているところがあります。写真にしてもそうで、「わからなさ」や「理解しようのないもの」を撮りたいと思うことが多いんですね。だから猫に関しても、理解できない、あるいはコントロールできないから惹かれるというところはあると思います。
猫
光と祈。

世の中は、わからないことだらけですからね。

わからないし形容できない、でも写真には写ってしまうんですよね。

それが写真の面白さでもあり、わからなさでもあると。

そうですね。実体は写真には写るけど内面まではわからないし写らない。でも写真って、めちゃくちゃ具体的じゃないですか。情報としてはわかるけど、実際はどうなのかは写真からはわからない。そういう意味でのわからなさ、曖昧さ、抽象的なところが写真の面白さであり好きなところでもあります。

荒木経惟さんが「写真には現在がない、すべてが過去になっちゃう」と言っているのを読んだことがあります。その言葉には続きがあって、でも写真になって今それを見ると「現在」になる、と言っているんですね。“それはまさにそうだよなぁ”と思うところがあって。たとえば30年前に撮られた写真に写っている猫を見たりすると、写真の上ではこんなにも命がキラキラと輝いているのに、今この子はこの世界にいないんだ、と胸がキュンとなります。そんな感情を喚起させるのも写真の本質のひとつだし、映像もですが写真って不思議な存在だなと思います。

写真だけではないかもしれませんが、「視覚芸術」って、自分が持つストーリーと重ね合わせて共感して落とし込むところがあると思っています。荒木さんとチロちゃんとの関係でいえば、病気になってガリガリに痩せても、本当の最後の最後まで荒木さんは写真に撮っているじゃないですか。亡くなったうちの青の場合は、脳の病気だったので段々とまっすぐ歩けなくなってしまったんです。カメラを向けながらも「ここまで撮るのか……」という葛藤がありました。それから時間が経っているのに、今でも当時の写真を見ると思い出して辛くなっちゃう。写真には、そこまでのパワーがあるんですよね。
猫
青。

写真もそうですが、東海林さんが時々InstagramのストーリーやTwitterに上げている言葉も印象的で。東海林さんは写真の人であると同時に言葉の人でもあるのかなという印象を持っているのですが、ご自身が思う“言葉と写真の関係”についても少し教えてください。

もともと本を読むことが好きで、言葉には常々影響を受けてきました。それもあるのか、たとえば写真集などを見る時に、ビジュアルと同時にイメージを喚起させてくれるような「言葉」も、自分の中に取り入れていく感覚があります。

なるほど。

でも同時に、写真と言葉がセットになるとある方向に誘導しやすいという危機感も感じています。だから自分としては言葉と写真どちらも好きなのですが、同時にどちらも疑いながら信じているという、なんともややこしい感じで(笑)。僕はものすごく天の邪鬼なので、写真も言葉もどちらも100%信じていて100%疑っているという感じですね。

それは面白いですね。セルジュ・ゲンズブールもジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ(愛している、そうじゃない)と当時の奥さんとデュエットしていますね(笑)。

実際に写真を撮る時も、言葉から喚起される部分が絶対的にあります。たとえば自分の中にストックされている言葉の描写に近いものに現実世界で出会った時、「この景色って、まさにあの一節じゃん」と自分の中でカチッとはまって、写真に撮るということが結構あるんですね。なんてことはないどこにでもある景色だけど、自分にとってはものすごく意味のある景色に見えることがあります。
猫
光。

最後にあらためて、東海林さんにとって猫とはどのような存在ですか?

猫は自分の生活にとって「日常」と言えるほど大切なものですし、生活の一部ですね。当たり前の日常の中にある特別な存在、家族です。それと深瀬さんではないけれど、自分自身の存在を投影している部分はどうしたってあると思います。青が亡くなった時に、どうしても消化しきれない思いが残ったのですが、先程お話した青を撮影した作品をまとめたことで、喪失感を少し消化できたという経験をしたんです。撮ること、そしてそれをかたちにすることで、喪失感はなくならないけど区切りをつけることはできた。だから、僕にとって「撮る=感情を投影すること」というのは、本質としてあるんじゃないかと思っています。
猫とカーテン
青。

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2020/06/20

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