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ホンマタカシ 東京と私 TOKYO AND ME (intimate)

Vol.19 田中知之(FPM、DJ / プロデューサー)
PLACE/鎗ヶ崎交差点あたり(渋谷区)

写真:ホンマタカシ 文:加藤孝司 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)

田中知之さん
田中知之さん
田中知之さん
鎗ヶ崎交差点付近の風景
鎗ヶ崎交差点付近の風景
鎗ヶ崎交差点付近の風景
田中知之さん
鎗ヶ崎交差点付近の風景

Sounds of Tokyo 19.(Daikan-yama Station)


「西陣織」で有名な、京都の上京区堀川寺之内で生まれました。家のまわりはお寺ばかりで、お茶の家元のお屋敷もあったり、大晦日には除夜の鐘が3ヶ所から聴こえてくるような京都らしい場所です。
人形供養で有名な「宝鏡寺」が家の向かいにあって、子どもの頃に自宅の格子越しに御参りにいらっしゃった上皇陛下をお見掛けした、そんな思い出もあります。

京都は新しいものと古いものがごっちゃになった、文化が混ざり合っている場所です。自分も中学の頃にお小遣いを持って骨董市に出掛けたりする一方で、80年代には当時流行っていたニューウェーブの音楽に夢中になって、自然と音楽をやりたいと思うようになりました。

中学3年からは友人とバンドを組んでベースを弾いていました。どうしても音楽の近くにいたくて、大学生だった18歳の時に当時全国展開していた「マハラジャ」というディスコで皿洗いのバイトをしたことがきっかけで、DJという仕事に興味を持ちはじめました。

実は宝島社の「キャプテンレコード」というインディーレーベルからバンドデビューも決まっていたのですが、バンドブームの終焉もあってレーベルは休止。音楽と同じくらいファッションも好きだったので、在阪のアパレルメーカーの企画部に就職しました。その後雑誌編集者を経て、東京に出てきたのが29歳の時です。

どこに住もうかとなった時に、最初にミーハー心で下見に行ったのが中目黒から代官山のあたりでした。その時たまたま鎗ヶ崎交差点の方から旧山手通りを眺めたのですが、ものすごく輝いて見えて……この街に一気に惹かれてしまいました。

のちに、「なぜあんな風に感じたのかな」と考えたことがあります。その時に思い出したのが、街の構造が碁盤の目になっていて交差点がたくさんある地元、京都の風景でした。

子どもの頃から、天気とは関係なく「ここは明るい交差点、ここは少し暗い交差点」というようなことを感じていたんです。ちょっとオカルトチックな話になってしまうのですが(笑)。この感覚って、今でも街を歩いていると感じるんですよ。鎗ヶ崎の交差点は、僕にとって「明るい交差点」だったんです。

当時はお金もなかったのですが、すごく無理をして交差点近くにある坂の途中の古いマンションを借りて住みはじめました。

その頃のことでよく覚えているのが、代官山駅のホームのすぐそばに「森永ベーカリー」というパン屋さんがあって、電車に乗るたびに焼き立てのパンのいい匂いがしていたこと。旧山手通りに架かる「猿楽町歩道橋」が2年前に撤去されたり、「代官山 T-SITE」もできて、この辺りの風景もだいぶ変わりました。変化は感じているのですが、昔からあるレストランや「ハリウッドランチマーケット」、「A.P.C」などのショップも健在で、基本は変わらないのかなあ。

旧山手通りが京都っぽいとは思いませんが、京都の街に感じる「陰」と「陽」をこの辺りにも感じます。
「代官山 T-SITE」がある場所はもともと空き地で、夏になるとひまわりがたくさん咲いている場所でした。友人のカメラマンと「ひまわりって、霊を吸い取るんだよね」とか話したこともありましたね(笑)。今は音楽大学が建ちましたが、旧朝倉家住宅の裏手、目切坂沿いもなぜか長年空き地でしたよね。

先ほど「輝いて見えた」と言いましたが、単に明るいところに惹かれたわけじゃないんだなと思います。きっと、陰と陽の両面性があるこの街に魅力を感じたんじゃないかな。

東京に来て今年で26年目になるのですが、自宅も事務所もずっとこの辺りです。ほかにも好きな東京の街はたくさんあるけど、よく考えたら自分が住んだことがあるのはこの辺りだけなんですね。
ずっと憧れだった代官山駅そばの「東急アパートメント代官山タワー」にも10年前に住むことができて、それでもう満足しちゃって(笑)。今は、鎗ヶ崎交差点から徒歩圏内の青葉台に住んでいます。
鎗ヶ崎から神泉に至る旧山手通りが自分のレジデンスになって、暮らしてきた月日を考えると「地元」と言ってもいいのかもしれませんが、いまだに「憧れ」という思いが強くてこの街をどこか客観的に見ている感じがします。

僕が東京に越してきた1995年頃は、文化にしろ音楽にしろ「東京発」のものが世界にどんどん発信されていった時代でした。僕も音楽をやる人間の一人として、京都生まれにも関わらず「渋谷系」というムーブメントに加えていただきました。ツアーやフェスなどでまわった海外では、その国のアーティストたちに日本の文化について聞かれることも多くて、なんだか誇らしく、胸が踊ったのを覚えています。
あれから20年以上経ちますが、「東京」には世界の他の都市にはないパワーが今も変わらずあると信じています。


田中知之 Tomoyuki Tanaka

1966年、京都生まれ。1995年にリリースされたピチカート・ファイブのアルバム『ロマンチック’96』の中に、自身のソロ・プロジェクトFantastic Plastic Machine=FPM 名義の楽曲「ジェット機のハウス」が収録されメジャーデビュー。97年に1stアルバム『The Fantastic Plastic Machine』をリリース以降、これまで計8枚のオリジナルアルバムやリミックスアルバム、ベストアルバムなどをリリースしている。
HP:http://www.fpmnet.com
Instagram:@tomoyukitanaka@fpm_official

鎗ヶ崎交差点付近の風景
鎗ヶ崎交差点付近の風景

東京と私


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2021/08/31

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