写真:ホンマタカシ 文:加藤孝司 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
Sounds of Tokyo 25. (In front of Nishi-Arai Elementary School)
生まれたのは東京の駒沢の病院なのですが、小さい頃の記憶として頭の中に色濃く残っているのは幼少期を過ごした足立区の西新井です。
父親が務めていた会社の工場が、今は「イトーヨーカドー」がある栄町あたりにあって、その近くに社宅がありました。塀に囲まれた広い敷地で、その中に2世帯ずつの家屋が20軒ほど並んでいて。敷地内には社員の子どもたちが遊ぶための小さな公園や貯水池を転用したプールもあって、幼い頃はよくそこで遊んでいました。
「東京の下町」と言われることも少なくない地域なのですが、それほど下町情緒があるわけでもなく、かといってサバービア(郊外)とも違う。そういう街です。
僕が住んでいた当時は、近所に町工場がたくさんあって、昔ながらの商店街や団地もあるような、極めて庶民的な風景が広がっていました。
小学校では電気屋や床屋などのお店や町工場の子どもたち、それに団地に住んでる子どもたちなど、みんなと一緒に遊んでいましたが、社宅は親も子もみんな知り合いで、そこでまたひとつのコミュニティがある感じでした。学校の中では“社宅の子”という括りが、なんとなくありましたね。
社宅の敷地内は、土と少し砂利が敷いてある程度で舗装はされていなくて……道の脇にドブが流れていて、お母さんたちが定期的にドブさらいをしていたのをよく覚えています。「ドブ」っていう言葉、今は都内じゃほとんど聞きませんよね(笑)。
建物は木造瓦屋根、2階建てといった典型的な昭和の住宅でした。たてつけが悪くて夏は暑くて、冬はすごく寒い。でも、それが当たり前だと思っていました。
学校から帰ると自転車で友達の住んでいる団地などに集合し、野球、缶けり、悪漢探偵、ローラースケートなどをして遊んでいました。大人になっても楽しいことは沢山あるけど、小学生の頃はとにかく毎日遊び呆けていて、今思えば黄金時代だったなって思います。
とにかく熱中していたのは野球です。
家のまわりの公園や原っぱなどで、狭いなりにルールを工夫して、友達と毎日のように日が暮れるまで野球をしていました。近所に野球で使うゴムボールを製造している町工場があったのでそこで安く譲ってもらったり、落ちているものを拾ってきたり。
日曜日は、広いグラウンドが取り合いになるんです。
朝4時半には「はっとりくーん!」と友達が家に迎えに来てくれて、自転車で少し離れたグラウンドまで行って、朝5時くらいからお昼まで野球をやっていました。
今の仕事に無理やり結びつけるとしたら、プロ野球チームのユニフォームや、グローブについているメーカーのロゴを絵に描いて遊んでいたとか、自分でチームのマークを考えて描くのが好きだった……という感じでしょうか(笑)。
今でも鮮やかに記憶に残っている景色は、学校が終わってボールが見えなくなるくらいまで友達と遊んでいる時によく見た、コウモリが飛んでいる夕暮れの空です。
そろそろ晩ごはんだし、帰らなくてはならない。でももう少し遊んでいたい。そんな時に公園から見た少し淋しいような景色は、僕にとって東京の原風景のひとつです。
その頃遊んでいた友達のほとんどは地元の中学校に進学をしたのですが、僕は親の薦めもあり中学受験をすることになりました。小学校5年生くらいから塾に行くようになったので、日が暮れるまでやっていた野球も、途中で切り上げなきゃいけない時もあって。
誰に何かを言われたわけではないけど、微妙な裏切りをしているような、どこか後ろめたい気持ちになったのを覚えています。
小学校卒業と同時に黄金時代を共に過ごした友達とも別れるような感覚がありましたし、卒業後、街中で友達と偶然会った時はなんとも言えない気持ちになったりして。
高校3年生の時に家が文京区に引っ越しをすることになって、西新井を離れました。約17年暮らしたことになるのかな。引っ越してから西新井に足を運んだ回数は、数える程しかありません。
ある時「工場があった場所が更地になってマンションが建ち、社宅もなくなったらしい」と、父親から聞きました。
気になってグーグルのストリートビューで見てみたら、あの頃の景色とはまるで変わっていました。
でも、当時通っていた「西新井小学校」や、友達がたくさん住んでいた団地「興野町住宅」、日曜日に野球をしに行っていた「西新井西公園」は今も同じ場所にあって、それに少しホッとして。
それまで西新井が地元なんだってそんなに意識していたわけではないけど、社宅が無くなった様子を見た時には、淋しいもんだなぁと思いました。まあ、そんなことを言える義理もないんですけどね。
大人になった今も、変わらず東京で暮らしています。
僕は東京で生まれ育ったから、暮らす場所として東京を選んだ経験は一度も無いわけです。ただなんとなく、住み続けている。
西新井を離れてから幾つかの街で暮らして、独立後に構えた西麻布の事務所にはもう20年以上いますが、西新井での日々は絶対的に“濃い”感じがするんです。
この感覚をノスタルジーという言葉で括ることもできるのかもしれませんが、「風景の中に自分がいた」と思える街は、今も昔も西新井だけですね。
服部一成 Kazunari Hattori
グラフィックデザイナー。1964年東京生まれ。東京芸術大学美術学部デザイン科卒業後、ライトパブリシティを経てフリーランスに。おもな仕事に、「三菱一号館美術館」「弘前れんが倉庫美術館」のロゴタイプ、雑誌『流行通信』『here and there』『真夜中』、ロックバンド「くるり」のアートワークなど。
東京と私