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ホンマタカシ 東京と私 TOKYO AND ME (intimate)

Vol.34 飴屋法水あめやのりみず(演出家・美術家)
PLACE/新宿(新宿区)

写真:ホンマタカシ 文:加藤孝司 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)

飴屋法水
新宿
新宿
新宿
飴屋法水
新宿
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新宿

Sounds of Tokyo 34. (Shin-Okubo's “handsome street”)


山梨の生まれですが、 4歳くらいで神奈川に引っ越したので、 山梨での記憶は写真の中にしかありません。
強いて言えば、 飼っていた亀が死んで用水路みたいな川に流したこと、 長い箒で祖母にお尻をぶたれたこと、 母親がミシンで自分の手を縫ってしまったこと、 近所の水晶屋の息子にスーパーボールを盗られたこと、 幼稚園の壁にはキリストが磔になる絵があったこと、 その絵の前でネズミの役をやったこと、 その日が雪だったこと。 これで全部言ったような気さえします。

神奈川で住んだのは主に小田原です。 父親の仕事の都合で、 小田原周辺の借家というか、 社宅を何回か引っ越しました。 山梨の生家はバイパス道路の建設で取り壊しになり、 以来、 懐かしいとか、 帰って来たというような感覚は、 土地や家には持てないでいます。

小田原には高校までいました。 当時から演劇部でしたが、 美術部や放送部、 野菜を育てる菜園クラブみたいなところにも手を出していて、 当時も今も、 僕は散漫な人間ですね (笑)。 1961年生まれなんですけど、 文化的にはちょうど “端境期はざかいき” で、 上の世代にはヒッピーやロック、 フォークがあり、 そんな中で60年代から70年代にかけてのいわゆる “アングラ文化” に出会い、 唐十郎さんや寺山修司さんの演劇が観たくて新宿へ通うようになりました。
小田原から小田急線で一本でしたから、 僕にとって新宿は “入口” でもありました。 新宿が東京との最初の接点だったんですね。

高校の途中でパンクやテクノが登場して、 長かった先輩の髪が、 ある日突然短くなったりして。 80年代に近づく頃ですね。 それでも当時の新宿にはまだ、 アングラ文化全盛時代の拠点であった名残りというか、 気配が混在してました。

そんな端境期で揺れながらも、 高校卒業の少し前、 僕は唐さんの劇団 「状況劇場」、 いわゆる紅テントに飛び込んで、 稽古場に近い阿佐ヶ谷で一人暮らしをはじめました。 17才でした。
先輩が運転する乗用車のトランクに、 布団とターンテーブルとアンプだけ積んで東京に向かったことはよく覚えてます。

阿佐ヶ谷に5年ほど住んだ後、 紅テントから独立した僕が、 最初に住んだのは新宿6丁目。 「アートシアター新宿」 という小さな映画館があり、 そこでようやく自分の演劇をはじめました。 そこから40年ほど経ちましたが、 ずっと新宿に住み続けています。

娘が生まれた頃は、 歌舞伎町の裏の職安通り沿いのドン・キホーテの辺り、 住所でいうと新大久保ですね。 当時の新大久保は、 東京の中でもおそらく最も多国籍な街でした。
住んでいたマンションは大家さんが台湾の方で、 日本人は僕たちだけ。 最上階は韓国の教会の牧師さんで、 なぜか母子家庭が多くて、 同じフロアに男性は僕だけで。

街を歩いていると聞こえてくるのは外国語ばかり。 フィリピン、 タイ、 ミャンマー、 インド、 それから中米・南米系、 イスラム系、 ロシアの方も多かったな。 それがものすごく居心地が良くて。
僕が一番怖いのは日本人ばかりの住宅街で、 同質な感じが、 息苦しいというか、 一番怖いです。

娘が生まれてからは、 ベビーカーに彼女を乗せて夜の散歩に出るのが日常でした。
一人で歩き出してからも、 いつも二人で散歩した。 ルールは絶対に手を繋がないこと。 彼女が歩いていく方向に、 少し後ろからついていくこと。

僕は90年代半ばから数年間動物商をしていたことがあるのですが、 自分たちで繁殖して人工保育しながら、 生物の成長の研究みたいなこともしてたので、 子育ても、 その延長で考えてたんだと思います。

動物って、 自分の持ってるキャパシティを使い切らないとイライラするんです。 処理能力に対して情報は多すぎてもいけないけど、 少なすぎてもダメなんです。 3食付きの独房にいても、 安全で安心して落ち着くわけではないですよね。
赤ちゃんの彼女も、 外からの情報量が少なすぎるから、 ぐずったり夜泣きをするように思えました。 それで夜の歌舞伎町の喧騒や新大久保の雑踏の中に行くと、 泣かないんです。 30分いるか、 2時間いるか、 それを決めるのも彼女のキャパシティ次第です。 僕は、 へえ、 と思いながらひたすら見ているだけの時間です。 動物と過ごしてたので、 そういうことには慣れてたんですね。

夜の散歩をする習慣は娘が高校生になった今も続いていて、 今朝も早朝5時半くらいまで伊勢丹の周辺を散歩してました。 2丁目も二人でよく行く場所です。 いろんな人がいますからね。

東京の中でも朝まで明るい街って本当に少ないですよね。 昼間あれほど賑わっている表参道界隈でも、 夜の9時頃には暗くなってしまうじゃないですか。 でも新宿は、 深夜まで街の灯りが灯っている街、 というイメージですね。 当時住んでいた新大久保から歌舞伎町あたりは、 特にその印象が強いです。

サッカーの日韓ワールドカップが開催された頃からでしょうか、 新大久保には韓国系のお店だけが爆発的に増えました。
住んでいた辺りも、 まるで原宿の竹下通りのように人で溢れかえるようになって、 情報量が増えすぎだと感じました。
韓流ブームへの反動なのか、 韓国の方へのヘイトスピーチなども起こるようになり、 散歩をしてて楽しいと感じなくなってきた。 それと娘が小学校に上がるタイミングが重なって、 同じ新宿区内ですが、 今の内藤町に引っ越しました。
内藤町は江戸時代に高遠たかとお藩主の内藤家の中屋敷があった場所だそうです。 攻め込みにくいように街区をつくった名残が今も残っていて、 家の前まで車が入ってこない。 2軒先には暗渠があり、 そこを境に新宿御苑です。 都心なのに緑も多くて、 夜にはフクロウが鳴き、 ウシガエルの声もする。 ヘビや虫など、 生き物がたくさんいるようなところです。

やっぱり、 新宿界隈が落ち着きますね。 例えば東京の東の方を訪れて、 “いい街だなあ” と思うことはありますけれど、 じゃあ住むかというと、 そのリアリティが湧いてこない。 新宿と自分の関係性は、 ある種の “刷り込み” に近いのかもしれないです。

動物って不思議なもので、 そこがどんなに過酷であったとしても、 幼少期に一度刷り込まれちゃった環境というのは、 理屈抜きに肯定というか、 受け入れて、 折り合いをつけていくようにできていると思うんです。
だから、 砂漠にもジャングルにも氷原でも、 生き物は必ず居る。 暮らし続けている。 生き物が持っているローカリティーって、 その場所を他と比べることなく受け入れ可能にする “刷り込みの力” だと思うんです。
僕は新宿で生まれ育ったわけじゃないけど、 まさにそんな感じで。 「遅れてきた刷り込み」 とでもいうのでしょうか。

幼少期に転々として、 場所への刷り込みが起こらなかったこともあるんでしょうね。 17才で新宿で暮らしはじめた時期が、 自分にとっての “幼少期” だったのかもしれません。 自分で自分に、 新宿という街を刷り込んだのかもしれないですね。

今暮らしている内藤町も、 2022年に開催された東京オリンピックが決まってからは、 昔ながらの古民家は1軒残らず取り壊され、 お年寄りの姿も消え、 マンションばかりになりました。
今年に入ってからも大きな空き地にあった欅の木が切り倒されたり、 静かにですが町の景色が変わりつつあります。

いずれ、 どうにもこうにもならなくなったら、 この町からも出るでしょうね。
でもそうなった時に東京のどこに行けばいいのか? 今はそれが思いつきません。
この町を出るとしたら、 その時はもう、 東京を離れる時なのかもしれませんね。


飴屋法水 Norimizu Ameya

1961年生まれ。 1978年から唐十郎が主宰した 「状況劇場」 で音響を担当し、 1984年に「東京グランギニョル」 を結成、 演出家として独立。 1990年代以降は現代美術に活動の軸を移す。 動物商の時期を経て、 2005年、『バ  ング  ント』 展で活動再開。 以降、 演劇や美術などとジャンルを定めずに、 根源的な生への関心を主題に活動を続ける。 2013年に福島県立いわき総合高等学校のアトリエ公演として創作した 『ブルーシート』 を発表し、 第58回岸田國士戯曲賞を受賞。 大友良英、 山川冬樹、 七尾旅人、 テニスコーツ、 MARK、 青葉市子、 小山田圭吾、 山口一郎など世代を超えたミュージシャンとの共演、 美術批評家・椹木野衣とのユニット 「グランギニョル未来」 など、活動は多岐に渡る。

飴屋法水

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2022/12/29

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