写真:ホンマタカシ 文・編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
Sounds of Tokyo 40. (Takeshi Shibuya's performance at 「AKETA no mise」)
東京生まれ、 東京育ちです。
第二次大戦中は親父の故郷である長野に疎開していたのですが、 終戦後、 7歳の時に大田区田園調布の自宅に戻ってきました。
お袋は小学校の音楽の先生で、 親父は売れないクラシックの作曲家。
2人とも東京高等音楽学院 (現在の
でもだんだんと他に面白いことが増えちゃって、 3年生の時に一度やめてしまったんです。 その後中学2年生の時に高校受験のために再開するんですが、 今思えばあの数年のブランクは非常にもったいなかったね (笑)。
ジャズが好きになったのは東京藝術大学の付属高校に通っていた高校2年の時。
ある日、 作曲科の同級生がジョージ・シアリングというピアニストのレコードを学校に持ってきたんです。 それを聴いた時、 ものすごい衝撃を受けました。
自分でもこういうことをやってみたいと思って、 楽器店でニューオリンズの古いスタンダードジャズの楽譜を買ってきて同級生と一緒に演奏してみたら、 すごく楽しかったんですよ。
「まさにジャズ !」 っていう感じがしてね。
その後大学に進学したもののあまり面白いと思えず、 授業をさぼってあちこちのジャズクラブに遊びに行っては、 時々ピアノを弾かせてもらうようになりました。
そのうち 「今日、 ちょっとピアノで入ってくれない ?」 と個人的に声をかけていただくように。 大学をやめて、 ナイトクラブやキャバレーでピアノを弾く生活を数年間続けました。
でも、 夜型の生活が良くなかったんでしょうね。 20代後半に体調を崩して長期入院してしまいました。
それ以降、 バンドマンとしてピアノを弾くことをやめて作曲や編曲の仕事を中心にするようになったんです。
縁あって作曲家のいずみたくさんの事務所に出入りするようになり、 CM音楽や歌謡曲などコマーシャルの仕事に4~5年関わりました。 いずみさんは当時かなりの売れっ子だったから、 すごく忙しかったですね。
そのうち段々と個人でやる仕事も多くなってきたので独立したのですが、 ちょうどそのタイミングでオイルショックが起こって景気が悪くなっちゃった。
暇な時間ができたものだから、 仕事の合間にジャズクラブに遊びに行くようになって。
有難いことに 「また店でピアノを弾かないか」 と声がかかるようになったのですが、 もう数年そういうことから離れていたものだから、 怖いんですよ。 指も思うように動かないし、 「ピアニストとしての感覚が鈍っているんじゃないか ?」 とか考えてしまってね。
「アケタの店」 の明田川荘之さんと出会ったのは、 ちょうどその頃でした。
新宿の 「安田生命ホール」 でジャズのコンサートがあって、 そこでたまたま明田川さんのバンドの演奏を聴く機会があったんです。
当時、 ジャズの新しいスタイルとしてフリー・ジャズが出てきた時で、 日本でいち早く取り入れた山下洋輔さんが注目を集めていました。
でも、 明田川さんの演奏はさらに何でもありというか……。 “どうでもいい感” が凄かった(笑)。
僕も一応音楽学校で学んだ身ですから、 知らないうちにアカデミックな感覚みたいなものが身についていたんでしょうね。 自由な演奏スタイルには抵抗を感じる方だったんです。
でも明田川さんがあまりにも滅茶苦茶にやるもんだから、 逆に感激しちゃってね。
「ピアノって、 こんなにめちゃくちゃ弾いてもいいんだ。 これでも音楽は成立するんだ !」 と。
その後、 明田川さんが西荻窪で 「アケタの店」 というジャズライブハウスをやっていることを知って足を運んでみたら、 彼の演奏よりもさらに凄かった。
まず床が平らじゃないんです。 天井もコンクリートの基礎が丸出しになっていたりして要するにとんでもなく汚い店だったんだけど、 僕は随分と気に入ってしまった。
もしかしたらずっと、 心の中でこういう感じを求めていたのかもしれないですね。
当時の僕は六本木のほうに仕事場と住まいを持っていたんですけど、 「もうこんなダサい街には住んでいられない」 ということになって、 西荻窪に引っ越しました。
それくらい、 明田川さんと 「アケタの店」 に出会えたことは僕にとって大きな出来事だったんです。
それ以降、 CMや映画音楽、 歌謡曲などの仕事を続けながらアケタの店で時々ピアノを弾かせてもらうようになって、 ジャズピアニストとしての生活が戻ってきました。
嬉しいことだったけど、 同時に少し複雑な気分にもなってね。
要するに僕は、 もともとジャズが好きでナイトクラブとかで弾いていたことがベースにあるからか 「自分はバンドマンである」 という意識がすごく強いんです。
コマーシャルの仕事というものが、 当時のジャズ業界では “シャリコマ” という……まあ言ってみれば “金に魂を売ったやつ” みたいなニュアンスの俗称で呼ばれていたんですね。
アケタの店でピアノを弾くことはシャリコマではなく、 バンドマンとして正しい音楽のかたち。 でも僕はシャリコマで生活をしている、 という事実があるわけです。
どうバランスをとったらいいのか……この10年くらい、 70歳を過ぎた頃にようやく気にならなくなったけど、 結構長いこと悩んでいたなぁ。
今は都内を中心に月の半分くらい、 馴染みの店でピアノを弾く生活です。
アケタの店でも40年以上弾いてることになりますね。
何でこんなに弾き続けるのか?
他にやることが無いからじゃないかな (笑)。 何もしないで家にいても、 退屈だしね。
東京で生まれ育ったからというわけではなく、 僕みたいなタイプは東京じゃないとだめなんでしょうね。
「田舎でのんびりと……」 とか、 ほんの少しだけ考えたこともあるけど、 実際そうなったらきっと途方に暮れるんじゃないかな。
退屈しないで生きられる気がしますよね、 東京という街は。
渋谷毅 Takeshi Shibuya
ジャズピアニスト。 1939年東京生まれ。 東京藝術大学音楽学部在学中よりピアニストとして活動をはじめる。 「渋谷毅オーケストラ」をはじめとする自身が率いるバンドやトリオ、デュオで活動をする傍ら、 1970年代より作曲家・編曲家として童謡、 歌謡曲、 映画、 CMなど数多くの作品を手がける。 主な受賞歴に、 第30回日本アカデミー賞・最優秀音楽賞 (2007年、ガブリエル・ロベルトと共に音楽を担当した映画 「嫌われ松子の一生」 ) など。 80代を迎えた現在も、 都内ライブハウスでの演奏をメインにした活動を行っている。
http://4carco.net/blog/
東京と私