東京で暮らす4組の家族を、定期的に取材。
さまざまな「かぞく」のかたちと、
それぞれの家族の成長と変化を見つめる。
写真:笠井爾示 文:大平一枝 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
かぞくデータ
須賀澄江さん(81歳・母方祖母)
笹木千尋さん(33歳・孫・会社員)
取材日
Vol.1 「誰も入れぬ固いもので結ばれた、孫と祖母の物語」/2019年7月
Vol.2 2020年1月
かぞくプロフィール
澄江さんは江戸川区葛西で生まれ育つ。義父母同居の近所に嫁ぎ、一男二女に恵まれたが、長女、次女を相次いで亡くし、昨秋夫が急逝。現在は長男とのふたり暮らし。孫の笹木千尋さんは、41歳で亡くなった次女の娘。千尋さんは高校時代に両親が離婚し、父のもとで育つ。うつ病の母は、実家である澄江さんのもとで暮らしたが、まもなく亡くなり、祖母と孫は互いの家を自転車で往来しながら、現在に至る。千尋さんは2018年結婚。
取材の三ヶ月前、須賀さんの夫はトイレで倒れ、82歳で急逝した。心筋梗塞であった。
前回取材した時は不在だったが、元気で一緒に暮らしていると聞いていた。息子がかわいいあまり何事にも嫁に厳しかった姑との日々を綴った本連載の記事を読んで、「大変だったんだなあ。俺は何もできなかったなあ」と、感想を漏らしたとも。
「口数が少なく、面白くないといえばそれまでだけどとても優しい人でした。何も言わずに逝っちゃうんだもん。せめてなにかひとことでもいい、伝えることなかったかなってね……」
孫の千尋さんが傍らでそっと励ます。「でもおじいちゃん、たとえ死期がわかっていたとしても何も言わなかったんじゃない?」
「そうだねえ」と遠くを見る横顔に、孤独の影がよぎる。しばらくして彼女はつぶやいた。
「ちょうど百ヶ日ですが、日が暮れるとなんともいえない寂しさを感じます。ああもうお父さんいないんだなって」
語らない昭和の男
長女を大腸がんで亡くしている。一度手術し、聖路加病院に毎日通院、1年後に再発して31歳で
「同居の姑は何も言わなかった。言えなかったんだと思います。お父さんはひとりどっしりと構えていた。けれどある日、ものも言わず茶の間にじーっとしていて、ああお父さんも寂しいんだな。悲しみを言葉に出せないんだなって思いました」
掃除のしかたが気に入らない。敷居を拭いていない。学がない。嫁のやることなすことすべてが気に入らない姑に耐えてきた須賀さんの話を聞きながら、夫はなぜ助け舟を出さなかったのかと、この年代の男性をひと括りにして、私は大きな疑問を抱いていた。
だが、言葉にしたくてもできないことがたくさんあった。そう簡単に、「ありがとう」も「大丈夫か」も「悲しい」も言えない或る世代の男性の心の内が、須賀さんの言葉からはじめて少しわかった。
「嫁に辛くあたるのは、息子がかわいいから。その息子がわたしをかばうようなことを言ったら、なお姑は私に辛くあたるでしょう。だからなにも言わないんですね」
そのかわり、「どこに遊びに行ったっていいんだぞ」と自由にしてくれた。おかげで、子どもを預け、北海道や九州を女友だちと旅ができたと、須賀さんは顔をほころばせる。
「ほらこれ見て。千尋がお父さんのお葬式のときにつくってくれたの」と、数枚の写真がコラージュされた一枚の紙を見せてくれた。長女に続き次女も亡くした時、千尋さんらが須賀さんを元気づけるために計画した旅行に、浴衣姿で踊る夫婦の写真があった。
また、先日の葬式で、千尋さんが祖父を偲んで書いた一文がある。
『楽しみや喜びは共にしても
悲しみや苦しさは心にしまいこむ
不器用で自由で謎な男。
その面倒で、おおらかで、魅力的な人柄を一番理解していた伴侶に見送られ、
この世を旅立てる幸福は羨ましい限りです』
娘ふたりを失ったとき、大声で泣くことも嘆くこともしなかった。ただどっしりと黙って須賀さんのそばにいた。実母を天に見送ったとき、「俺は何もできなかった」と妻につぶやいた。「ありがとう」はなくても、それが最大のねぎらいの言葉であると、須賀さんには十分伝わっていた。
だから夕暮れになると彼女は寂しくなるのだろう。
取材後、千尋さんと須賀さんの散歩に同行した。今は、「おばあちゃんと歩くと心のザワザワがスーッとおさまるんです」と語る千尋さんとの散歩時間に、須賀さんも癒やされているというからだ。
キラキラと穏やかな光を放つ江戸川の