東京で暮らす4組の家族を、定期的に取材。
さまざまな「かぞく」のかたちと、
それぞれの家族の成長と変化を見つめる。
写真:笠井爾示 文:大平一枝 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
かぞくデータ
須賀澄江さん(81歳・母方祖母)
笹木千尋さん(33歳・孫・会社員)
取材日
Vol.1 「誰も入れぬ固いもので結ばれた、孫と祖母の物語」/2019年7月
Vol.2 「夫を亡くして百ヶ日。『日が暮れると寂しいの』」/2020年4月
Vol.3 2020年9月
かぞくプロフィール
澄江さんは江戸川区葛西で生まれ育つ。実家は海苔の養殖を営んでいた。義父母同居の近所に嫁ぎ、一男二女に恵まれたが、長女、次女を相次いで亡くす。現在は夫と長男の三人暮らし。孫の笹木千尋さんは、41歳で亡くなった次女の娘。千尋さんは高校時代に両親が離婚し、父のもとで育つ。うつ病の母は、実家である澄江さんのもとで暮らしたが、まもなく亡くなり、祖母と孫は互いの家を自転車で往来しながら、現在に至る。千尋さんは2018年結婚、2019年1月に澄江さんの夫が永眠した。
祖母の須賀澄江さんは3年前からパーキンソン病を患っている。ついこの間まで、調子のいい日は自転車に乗れたが、今はままならず、自宅の座椅子にいる時間が長くなった。
料理は出来るので、53歳の長男とふたり分を毎日つくっている。
私達が訪ねた時も、過去2回の取材がそうであったように、大きなあんこのぼたもちをカメラマン、編集者と3つのパックに小別けして、輪ゴムが巻いてあった。朝からもち米を炊いて、こしらえたという。
この日、孫の笹木千尋さんからは「祖母宅に行く前に、私だけでゆっくり取材を受けたい」と申し出があった。澄江さんの疲労を心配してのことであろうが、「家族」を語るとき、祖母の前では話せないこともあるのでは、と察した。
「祖母と距離をおきたくなった」
澄江さん宅から車で10分。夫とふたり暮らしの彼女のマンションは、あまりものがなく、すっきり整理されていて、窓から心地よい川風がそよいでいた。結婚3年目を新婚というかわからないが、ずいぶんシンプルで、カップルの甘さより清廉な大人の落ち着きが印象深い。
千尋さんは言う。
「最近、母の思い出を処分しようと思い立ち、断捨離したのです。母からもらった服や小物など。リビングに飾ってある絵だけは捨てられませんでしたけれど。私が中学時代に描いた絵で、母がとても気に入って額装し、亡くなるまでは祖母と暮らした実家に飾ってあったのです」
母親はうつ病を患い、彼女が小6のときに離婚。澄江さんのいる実家に戻り、千尋さんを筆頭に3人の姉妹は、父と暮らした。
「末っ子はまだ保育園でしたから。当時30歳の父と娘3人の生活は、悲しみに暮れている間はないというか、もうしっちゃかめっちゃかでした。でも、今思えば楽しかった。父が優しい人なので。夕ご飯は父がつくりますが、それ以外の洗い物、配膳、お風呂洗い、何もしなくていい人をみんなでじゃんけんで決めるんです。妹の保育園お迎えは私と次女の仕事でした」
一時期、母に幼い妹二人が引き取られた時があった。千尋さんは子どもながらも、母の不安定な病状からみて早々に破綻するだろうと直感的に思った。
「私はお父さんについていてあげなくちゃ。そうしないとお父さんは再婚してしまって、妹たちが帰る場所がなくなってしまうと必死でした。案の定、すぐに帰ってきて。また4人暮らしがはじまったのです」
その後母は、彼女が二十歳のときに突然この世を去った。千尋さんは、「自分は、父や妹にとって抜けた、母という存在の穴を埋めたい、埋めなければいけない。家族は助け合って仲良くしなきゃいけないんだと、一段と強く思うようになりました」と、振り返る。
急逝した時は悲しみより、自分がしっかりしなくてはという責任感が勝った。幼い頃、躁状態の母が突然小学校に来るなど、奇行によって振り回されたことも多々ある。突然死というかたちでの終焉は、「悲しみと僅かな安堵が入り混じっていました」。
しかし、歳を重ねるごとに、自分の肉体に、母が半分入り込んでいるような不思議な感覚が増していった。
こういうとき母ならどうするか、どう言うか。つねに自問自答しながら振る舞う。祖母にとっての娘、父にとっての妻、妹たちにとっての母親を埋めるべく、家族を正常なかたちに戻したいという一心で、そう考えるのが癖になっていたのだ。
「私の肉体に私と母の意識が5:5で入っている感覚を持とうとすることで、母が亡くなったことの悲しみを直に受けないよう防御していたのかもしれません」
とりわけ、母の姉も含め娘ふたりを相次いで亡くした祖母をいたわり、ここまでまさに蜜月とも言えるような時を過ごしてきた。本連載第1回のタイトルは、事情をよく知らない私でも感じられる特別な距離感から命名している。
「祖母なしで取材を」という話の本題は、次の言葉からはじまった。
「じつは今、祖母と距離をおいているのです。祖母が私を、孫ではなく娘のように扱うのがだんだん苦しく感じられるようになってしまって……。娘のように振る舞っても、絶対に娘になってはあげられないので」
彼女の澄んだ瞳に苦悩の色が帯びる。
母が祖母にやってあげられなかったことを、私が……
「祖母の体調が心配なのもあって、私は今年2月に会社を退職しました。なにかあったらすぐ駆けつけられるようにしたかったのです」
それまでは祖母宅に遊びに行くのは週に1度だったが、退職後は週3回に。祖母はますます彼女を頼るようになった。
次第に、千尋さんは、時折漏らす「娘のようなもの」という言葉に違和感を抱きはじめた。同時に、祖母の暮らしに口を挟みたくもなるのだった。
「祖母は53歳の長男と同居しています。私の叔父にあたる人で、会社勤めをしていません。以前から気になっていたその状況や祖母の今後が心配で、だんだん私は口を出すようになり……。叔父にしてみればいい迷惑ですよね。私が祖母との距離感を間違えているのはわかっています……。でも、心配でたまらなくなるのです」
自らの退職の理由を、「毎日、祖母がどうしているか気になり落ち着かなかった。都心にフルタイムで働きに出るより、限りのある祖母との時間を優先するのが最善だと思ったから」と言っていた。
——そこまでの執着はどこから来るのだろう。
「祖母への気持ちは、母への想いからくるものだと最近気づきました。祖母のことを考える時、お母さんのことを思う。母が娘として祖母にやってあげられなかったことをしてあげたいし、どこまで世話をしたらいいかと考えるとき、孫ではなく娘である“母”が基準になってしまう。私の中で、母と祖母に幸せでいてもらいたかったという気持ちが強いからなんですよね」
30代になり、ようやく結婚する気持ちになれた。
母を知らない夫との暮らしは、もう母の代わりを演じなくてもいいという解放感と安らぎに満たされていた。それでも、深酔いしては「お母さーん」と何度も叫び、部屋のあちこちに母にまつわるものを飾っては泣く日がまだある。
「祖母との距離を見誤りかけるのも、心の底で、母の死に執着しすぎているからだろうと思えてきて。だから、最近、母の思い出を処分する断捨離をしたのです。そして、祖母の家に行くのをしばらくやめました」
シンプルな部屋の理由はそれだったか。
今日の取材での再会が、1週間ぶりだそうだ。そんなことは春以来はじめてで、彼女と澄江さんにとって1週間は、きっと気が遠くなるほど長かったろう。だからといって、特に感動的なハグがあるわけではなく、淡々としていた。穏やかであたたかな、このふたりだけが持つやわらかな空気が流れているだけだった。
取材後、千尋さんから届いたメールに、こんな一文があった。
『私の中でようやくお母さんは死につつあるように感じます。もちろんいい意味で。』
次回訪ねた時、きっとまた祖母への思いはわずかに変化しているのではなかろうか。存在が消えても消えなくても、家族への思いは生き物のようにたゆたい、終わりがないものだと思うから。