東京で暮らす4組の家族を、定期的に取材。
さまざまな「かぞく」のかたちと、
それぞれの家族の成長と変化を見つめる。
写真:笠井爾示 文:大平一枝 編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
かぞくデータ
須賀澄江さん(82歳・母方祖母)
笹木千尋さん(34歳・孫・主婦)
取材日
Vol.1 「誰も入れぬ固いもので結ばれた、孫と祖母の物語」/2019年7月
Vol.2 「夫を亡くして百ヶ日。『日が暮れると寂しいの』」/2020年4月
Vol.3 「母の突然の死から13年。家族の心の穴を埋めようと必死だった日からの卒業」/2020年9月
Vol.4 「母を亡くした姉妹。とけた誤解と今後の夢」/2021年1月
Vol.5 「一生祖母のそばにと決めていた彼女が移住を決意。亡き母からの卒業」/2021年6月
Vol.6 2021年10月
かぞくプロフィール
澄江さんは生まれ育った江戸川区葛西から離れたことがない。一男二女に恵まれたが、長女、次女を相次いで亡くす。昨年夫を看取り、現在は長男とのふたり暮らし。孫の笹木千尋さんは、次女の娘。千尋さんは高校時代に両親が離婚し、父のもとで育つ。うつ病の母は、実家である澄江さんのもとで暮らしたが、41歳で急逝し、祖母と孫は互いの家を自転車で往来しながら、現在に至る。千尋さんは29歳で結婚。夫の転職により今年7月より千葉に移住。
2カ月前、孫の千尋さんは生まれてはじめて、祖母の須賀澄江さんの家から自転車で通えない距離に越した。それがいかに大きな決断であったかは、第1回、第3回に詳しい。
両親は12歳の時離婚。うつ病で育児ができない母に代わり、父に3姉妹とも引き取られた。千尋さんは長女であり、20歳で母を亡くす前も後も、率先して家事やふたりの妹の世話を担ってきた。近くに暮らす母方の祖母、澄江さんは彼女を陰日向となり物心両方で支えた。
取材をはじめた2年半前から、澄江さんはパーキンソン病がゆっくり進行している。千尋さんは、なにかあった時にすぐ駆けつけられるよう広報職を辞し、葬儀店のアルバイトに。週に1度は必ず家を訪れ、おしゃべりや手料理を楽しむ。電話は毎日のように交わした。
そんな彼女が、千葉の房総に移住を決断したのである。
「私は祖母を通して母を見ていた。そろそろ母から卒業しようと思います」。
3カ月前の取材でそう語っていたのを実行に移したともいえる。
今回の取材は、江戸川区の澄江さん宅で。千葉から2時間バスと電車に揺られやってきた。会うのは2カ月ぶりだという。
疲れやすく、日によって体調に差がある澄江さんは、今日は肌つやもよくお元気だ。愛しい孫の来訪がカンフル剤になっているとよくわかる。単刀直入に尋ねた。—— 千尋さんにすぐ会えない今の生活は、いかがですか。
「ただただ寂しいよね。たよりたくなるし、話し相手がほしい、些細なことでもいてほしいってしょっちゅう思うけど、電話しないの。年寄りが電話してきたら鬱陶しいだろうと思うから」
最初に移住の決意を聞いた時、開口一番、「これからは若い人中心で、がんばんなさい。もうおばあちゃんは大丈夫だから。十分感謝しているから」と言った。(第5回 「一生祖母のそばにと決めていた彼女が移住を決意。 亡き母からの卒業」)それはどんな気持ちからだったのでしょう?
「だって反対したところでしょうがないじゃない? だんなさんは温厚で優しい方。その人が行きたいって言うなら一緒がいい。夫婦で仲良くするのがいちばんですもの」
傍らで千尋さんが口を挟む。
「でももしも離婚したい、千葉から帰りたいっていう時はいつでもうちに住んでいいよっておばあちゃん付け加えたよね」
あっははとふたりは声を上げて笑った。
澄江さんは、孫の心内をよくわかっていた。
「この子は私に母親を重ねていたのでしょう。そんな千尋が決めたのなら、自分の気持ちより、孫の気持ちやしたことに賛成することのほうが大事ですからね」
得意の料理は、今は足腰が弱っているので、ヘルパーさんが主に担っている。ニコニコと朗らかに話していた澄江さんは、急にそっと畳に横になった。40分が経っていた。茶菓子や取り寄せの海苔を次々我々に勧め、一生懸命もてなしてくれたが、体力の限界が来たらしい。
静かにおいとまし、場所をカフェに移してさらに千尋さんの話を聞くことにした。
2年半前はインタビューと撮影に2時間付き合ってくださっていた。いつもおはぎや赤飯などスタッフ全員分の料理をつくって待っていた。朝早くからもち米を炊いたり、あずきを煮てくれていたに違いない。今日は、袋いっぱいの菓子や海苔をそれぞれに。台所に立ちたくても立てない歯がゆさが紙袋から伝わってくるようだった。
眠りかける澄江さんに別れを告げ玄関を出るとき、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。遠く離れて暮らす千尋さんは、どれほどのぎゅっを毎日体験していることだろう。
やりたいことが東京を離れて見えてきた
「どうしてるかな、困ってないかなと毎日思います。つねに頭の隅っこにおばあちゃんがいる。でも気になってもそばに行くことはできません。非情だなと思ういっぽう、あ、これがふつうの孫とおばあちゃんの関係かと。今までは土日のどちらか必ずおばあちゃんちに行っていました。ああもう土日全部私の時間に使っていいんだって思うと、めっちゃ気持ちが楽になって……」
房総に移住していちばんの大きな変化は、自分のやりたいことに目が向いたことだ。
「東京にいた頃は自分からなにかやる気になれなかったんです」
祖母が心配で転職した彼女だ。関心が祖母に注がれ、自分を内観するゆとりがなかったとしても不思議ではない。
専業主婦をしている今、彼女が着手したのは私設図書室づくりである。
本は寄贈で。ただし生涯にひとり一冊しか寄贈できないという風変わりな試みだ。
「いろんな人から思い出の一冊を集めたいのです。亡くなった人の蔵書を身内の方が寄贈してもいい。人はみな亡くなります。それは本当に避けようのないことだと心底腑に落ちた。であれば、その人が生きている間に持っていた想いを保存できないかなと思ったのがきっかけです。本にはその人の性格が出る。本を故人の墓石にしたい。そういう空間をつくって誰かひとりでも救われたという人がいてくれたら嬉しいなと思うのです」
つい最近もホームページを通して、家族を亡くした人から図書室に行ってみたいと便りをもらったそうだ。過疎が進む集落に移り住んだが、にぎやかなはずの東京にいた頃より人とのつながりが縦横に広がったと微笑む。
「お母さんについて考えることを手放したら、自分の想いも人のつながりも広がっていきました。亡くした悲しみは変わらずありますが、執着を手離したら楽になれた。今、グリーフケアも学びたいと思っているところなんです」
華やかな顔立ちの美しい人だが、今日の千尋さんはとりわけ輝いて見えた。私は思う。喪失は、希望を生み出す糧にもなる。
目を輝かせて語る図書室の夢を、澄江さんには?
「私、おばあちゃんをなめてました。さっきはじめて言ったんです。わからないだろうなあと思いながら。そしたら“ラジオで聴いたことがあるよ。びっくり。それは素晴らしことだね”って。驚くほど理解して、すぐ仲良しのご近所さんに電話して、ちゃんと説明したらほらこれ、すぐ持ってきてくれたんです」
日に焼けた古い三浦綾子の『氷点』の文庫を差し出す。
「なぜ寄贈してくれたかというメッセージと、生年月日とお名前を書いてもらうようにしているんです。この方は昭和8年生まれ。2年前に息子さんを亡くされたクリスチャンです」
『氷点』もキリスト教をテーマに扱った小説である。
母、祖母、東京、自分。遠くに離れたからこそわかることがある。
次は房総を訪ねますと約束をして別れた。
その頃、蔵書はどれくらいたまっているだろう。