Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、東京在住。武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。
小さいけれど、独創的でエスプリに富んだ企画をするギャラリーは魅力的だ。
今年、開廊10年を迎える「ギャラリーSU」と「Galerie LIBRAIRIE6/シス書店」は、とりわけいつも気になるギャラリーだ。
ギャラリーSUを訪ねたきっかけは「ロベール・クートラス展」で、その小さなギャラリーのオープニング企画だった。
クートラスを知ったのは「パナソニック汐留美術館」が「松下電工NAIS ミュージアム」だった頃の展覧会「建築家の流儀 中村好文 仕事の周辺」展(2004年)で、好文氏所蔵のクートラス作品を見た時だ。
展覧会は4部構成になっていて、「1.建築設計の流儀」、「2.旅の流儀」、「3.家具デザインの流儀」、そして最後の「4.学び方の流儀」のセクションにそれはあった。
展示にはキャプションがなく番号だけが記されていて、入り口で渡された手のひら程の大きさのハンドブックに展覧会のすべての項目とその解説文が載っていた。
㊾クートラスのカルト
「ロベール・クートラスのカルトを組み合わせた絵。カルトは折りにふれて一枚一枚描いておき、後で絵の背後にあるエピソードや色彩の調子を考慮しながら組み合わせて自分だけの世界を作り出すのだとクートラスは話してくれました。作品も素晴らしいですが、作品の背後にあるその連句的な発想が私はとても面白く思います。」 (展覧会ハンドブックより)
と書いてある。”カルト”? ”クートラスが話してくれた”? この古いタロットカードのように見える紙片は”カルト”と呼ばれるもので、これを描いたクートラスは意外にも同じ時代を生きている作家のようだ。
さまざまな疑問が頭をよぎったが、その後もずっと謎のままだった。
それから何年かたったある日、「クートラス・ジャーナル」というフリーペーパーが送られてきて、さまざまな人がクートラスをめぐる想いを綴っていた。それは、1年後の2010年に開かれるクートラス展とクートラスの作品集出版への助走ともいうべきものだった。
ロベール・クートラスはパリの画壇での成功に背を向け、画廊から請われる絵と決別した作家だ。
ボール紙や厚紙を手札大のカードにした「カルト(carte)」と呼ぶ作品の制作に没頭した。一夜に一枚のカルトを描き、彼はそれを僕の夜(Mes Nuits)と名付けたという。
ポスターの裏に描かれたグワッシュ、ダルマストーブで焼いた小さなテラコッタ、路傍で拾ったガラクタや空き缶や針金、コルク栓、マッチ箱などでつくった手すさびのオブジェなどなど、人に見せる為でも売る為でもない作品を生みだし続けた。彼は突然世を去るのだが、彼の暮らした部屋には膨大な作品が残されていた。その作品は、彼の遺言で一人の日本人女性が相続し管理を託されることになった。
岸真理子さんがその人だ。1985年に55歳で逝去したクートラスの全作品を託された彼女は、その後彼の個展を開催するために奔走する。
彼の死後、パリや銀座の画廊での個展も開催されたが、2010年の10月には若い人にも伝わるようにと「ロベール・クートラス展」が都内3箇所で同時に開かれることになった。青山の「COWBOOKS」、京橋の「POSTALCO」、麻布台の「ギャラリーSU」だ。
作品集の出版や個展開催に携わった多くの人を突き動かしたのは、クートラスの友人だった画家のジャック・ヤンケルの次のようなシニカルな言葉があったからかもしれない。
「クートラスはロマネスク時代の存在なんだよ。彼は12世紀に生きればよかった。今の時代はこうした孤独な夢想者、天才的な職人そして心底からの詩人なんか見向きもしない。われわれの時代は、詩人たちを必要としていない。」
そうだろうか? われわれの時代は夢想者も、天才的な職人も、詩人も必要としていないだろうか?
飯倉片町の「キャンティ」の角を曲がり、秀和狸穴レジデンス前を下っていくとUの字にカーブする路地に合わせて建つ古い洋館風の建築群の前に出る。そこは昔「スペイン村」と呼ばれていたエリアで、その一画にギャラリーSUはあった。
薄荷色の隅切りの扉には三角窓がついていて、さまざまな大きさのアーチ窓があらゆるところに穿たれている。壁は漆喰で、古いけれど丁寧に手入れをされていて独特の魅力を醸し出している部屋だ。
ギャラリーにする前は、ギャラリーSU主宰の山内彩子さんの住まいだったので、個人のお宅を訪ねているような気持ちになる。時が止まったようなこの空間で、クートラスの作品は以前からそこにあったかのように馴染んでいた。
通称スペイン村=「和朗フラット」は、1935年(昭和10年)から数年かけてつくられた7棟の、当時珍しい家具付きアパートで、「トランク一つで入宅できる」と言われていたようだ。
建主の上田文三郎が1920年代の終わりに旅行したアメリカで目にしたコロニアル・スタイルの家やアパートメント・ホテルをイメージして自ら設計してつくらせたものだという。furnished apartmentの走りだったのだろう。
和朗フラットを住まいにされていたスタイリストで「DOUBLE MAISON」のデザイナーでもある大森伃佑子さんは、若い頃からここに住みたいと空き部屋が出るまで7年待って入居したという。不便さや住み心地など問題はあっても代えがたい魅力があって、25年の月日をここで過ごした。
その理由は? との問いに「どうしてあんなに好きだったのかというと、あの古さは他にはないこと、それが六本木という都会の真ん中の隅にあることのそのギャップ。そして、ここに住むというアイデンティティが、自分の生き方や仕事を支えていたように思う。」という答えが返ってきた。
いくつかの棟は新しいビルに建て替えられていく中で、ギャラリーSUの入る四号館は、登録有形文化財のため、建物公開の一環として、1階では店舗の開業が許可されている。
ギャラリーSUにはこの10年間でクートラスの展覧会がある度に足を運んできたが、SUの意味を聞いたことがなかった。
山内さんは、クートラスの個展を2003年から2009年まで3回開いた銀座の画廊「無境」に勤めていた。しかし最後の個展の直後オーナーが急逝し、「無境」は閉廊する。
2009年の個展をきっかけに、翌年クートラスの作品集を出版することになり、その刊行と自身が立ち上げる新ギャラリー・オープン展を同時に設定することになった。岸真理子さんからの大きな信頼に背中を押されて。
「無境」での最初のクートラス展の案内状に、中村好文さんの書いた「人の心を深いところで安堵させる動物の巣のような気配も充満していました」というフレーズがあった。これは彼がクートラスのアトリエを訪ねた時の印象を書いたものだった。
独立してはじめる小さな自分のギャラリーを「巣」のように「作家を守り、育て、作品を良き場所へ巣立たせる場にしたい」との思いを込めて、SUと命名することにしたという。
今年の9月から10月にかけては「開廊10周年記念展」として、定期的に個展を開催している作家達による「巣」をテーマに制作された作品のグループ展を予定していたが、コロナ禍により、来年10月に延期して開催することになった。
<関連情報>
□ロベール・クートラスについて
http://www.robert-coutelas.com/jp/biography/
□クートラス・ジャーナル
http://www.e-ecrit.com/publication/21/
□ギャラリーSU
http://gallery-su.jp
□和朗フラット四号館
http://www.warouflat.com
https://webstore.uguisulittleshoppe.com/items/12503279
□DOUBLE MAISON
https://www.doublemaison.com
https://www.doublemaison.com/letter/2011/11/
https://www.doublemaison.com/shopping/405/
□ロベール・クートラス関連の出版物
「ロベール・クートラス作品集 僕の夜」(2010年)
http://www.e-ecrit.com/publication/22/
「クートラスの思い出」(2011年)
http://www.littlemore.co.jp/store/products/detail.php?product_id=820
「ロベール・クートラス 夜のギニョール劇団」(2015年)
http://www.littlemore.co.jp/store/products/detail.php?product_id=899
「ロベール・クートラス作品集 僕のご先祖さま」(2015年)
http://www.e-ecrit.com/publication/15/
「ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す」(2016年)
http://www.noharabooks.jp/item.php?id=406
「Robert Coutelas 1930-1985 ロベール・クートラス作品集 ある画家の仕事」(2016年)
http://www.e-ecrit.com/publication/737/
「ロベール・クートラスの屋根裏展覧会」(2016年)
http://www.keibunsha-books.com/shopdetail/000000019645/