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TOKYO BUCKET LIST. 都市の愉しみ方 お菓子から建築、アートまで歩いて探す愉しみいろいろ。

第69回:マリー・クワント展/
Freely be Yourself

Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、 東京在住。 武蔵野美術大学卒業後、 女性誌編集者を経てその後編集長を務める。 現在は気になる建築やアート、 展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。


パンデミックが世界に広がる寸前の2019年の10月に英国に行ったのが、 海外渡航の最終履歴だ。
ロンドンで訪れたヴィクトリア・アンド・アルバート博物館 (V&A) で その時開催中だったのがマリー・クワント展だった。

時間がなくて後ろ髪を引かれる思いで素通りしてしまったが、 椅子にちょこんと座ったマリー・クワントがこちらを見ている写真がとても印象に残った。

KIGI
左は2019年「V&A」で、右は2022年現在開催中の「Bunkamura ザ・ミュージアム」でのエントランス風景。 写真:筆者提供

それがスコットランドの 「V&A Dundee」、 オーストラリア、ニュージーランド、 台湾を経て約3年後に東京展として日本に巡ってきた。
なんてラッキーなんだろう!

この展覧会は 1950 年から 1970 年にかけての20年ほどの間に、 ミニスカートから鮮やかなタイツやコスメティックに至るまで、 若い世代に向けた自由な発想のデザインでマリー・クワントが英国だけでなく世界中でどのようにファッション革命を起こしたかを探るものだ。
この展覧会のために主催者である V&A は、 一般の人々に 「#We want Quant!」 という呼びかけをした。

「私たちの展覧会をさらに活性化するために、 珍しいマリー・クワントの衣服を探し出し、 個人的なストーリー、 思い出、 写真を収集するための公募を開始します。 このためには、 あなたの助けが必要です! あなたの声と服を展覧会に追加したいと思います。 ストーリーを共有するには、 maryquant@vam.ac.uk まで電子メールでご連絡ください。」

そして以下のように必要とする具体的なアイテムを列挙した。

「1950 年代の『バザー』のラベルが付いた初期のドレス、 1963年にクワントが発表した初期のドレス、1963年にクワントが発表したウェット・コレクションの PVC 製品。1964年と1965年のピーターパンカラーのドレス。 マリー・クワントのバタリックの型紙を使ってつくったドレス。 1960 年代にクワントがデザインしたパターンを使用して自宅で編んだコートルのカーディガンとセーター。 マリー・クワントの水着と靴。」

この呼びかけには圧倒的な反響があり、 服をはじめとしたさまざまな物や、 思い出が寄せられたという。
特定のコレクターの所蔵品が核になるファッション展にありがちな方法論を取らず、 広く世に求めた姿勢はマリー・クワントというデザイナーにふさわしいと感じた。

展示は、 この呼びかけの成果がところどころに見える。

1966年に刊行された 『Quant by Quant』 (日本語訳「ミニの女王マリー・クワント自伝」) によると、 絵を描くことが好きだった少女マリーはロンドンのアートの学校ゴールドスミス・カレッジでアレキサンダーという青年に出会う。
ふたりが溜まり場にしていたチェルシーのコーヒーハウスの経営者で弁護士の資格を持ったアーチーを加えた3人は、 キングス・ロードに 「BAZAAR (バザー)」 というユニークなブティックをオープンさせた。
「自由に自分らしく」 生きたいと思っていたマリーは、 母親世代の古臭いモードや特権階級のためのオートクチュールに辟易としていた。 今を生きる若者=マリー自身のための服をつくってお店に出した。 1955年のことだ。 ここからマリー・クワントの快進撃がはじまる。

マリー・クワント
《マリー・クワントのブティック「バザー」のショッパーを持つモデル》 1959年 Image courtesy of Mary Quant Archive / Victoria and Albert Museum, London
マリー・クワント
マリーと貴族階級出身のアレキサンダー、 弁護士の資格取得からキングス・ロードにスタジオを持つカメラマンになり、 「フィンチ」 というコーヒー・ハウスを経営していたアーチー・マクネアは意気投合し、 アレキサンダーの祖母の遺産とアーチーの預金で 「バザー」 は開店した。

《マリー・クワントと、夫でビジネスパートナーのアレキサンダー・プランケット・グリーン》 1960年 Courtesy of Terence Pepper Collection. © John Cowan Archive
マリー・クワント
「バザー」時代のドレス。 会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供

はじめはkinky (気まぐれな)、 kooky (変てこな) と言われたマリーのつくった新しいファッションが必要としたヘアスタイルは、 ヘアスタイリストのヴィダル・サスーンがつくり出した。
マリー・クワントのトレードマークになったファイブポイントカットやショーのモデルも、 サスーンのヘアスタイリングだった。
アイコンとなるモデル、 パティ・ボイドはジョージ・ハリソンの恋人だったし、 トップモデルのジーン・シュリンプトンと付き合っていたのはカメラマンのデヴィッド・ベイリーだ。
そんな華やかな人たちが、 このブランドを支える仕事仲間だったのだ。

マリー・クワント
《マリー・クワントと、ヘアスタイリングを担当していたヴィダル・サスーン》 1964年 © Ronald Dumont/Daily Express/Hulton Archive/Getty Images
マリー・クワント
会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供

こちらはメンズウエアの特徴をデフォルメしたりデザインに取り入れた60年代の代表的デザイン。
たくさんのボタンのついたカーディガンドレスは舞台 「マイ・フェア・レディ」 でヒギンズ教授の着ていたカーディガンにヒントを得てつくったもので、 その役を演じた 「レックス・ハリソン」 の名がつけられた。

マリー・クワント
《カーディガンドレスの「レックス・ハリソン」を着るジーン・シュリンプトン》 1962年 © John French / Victoria and Albert Museum, London
マリー・クワント
「メンズウエアをひっくりかえす」(1960~63年)。 会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供
マリー・クワント
《近衛兵の先を行く》 1961年 Photograph by John Cowan © John Cowan Archive
マリー・クワント
《ベストとスカートを組み合わせた「コール・ヒーバー(石炭担ぎ)」を着るセリア・ハモンド(左)とジーン・シュリンプトン》 1962年 Photograph by John French © John French / Victoria and Albert Museum, London
マリー・クワント
会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供

やがてマリー・クワントのファッション・ビジネスはJ.C.ペニーなどとライセンス契約を結びアメリカ市場にも進出、世界的規模での大量生産をはじめる。
そしてコスメティック事業なども展開し、その後はライフスタイルビジネスにも手を広げた。

マリー・クワント
左のモノクロ写真は観光バスを使った Youth Quake(ユースケイク) キャンペーン。 右はニューヨークのマリーとアレキサンダー。 『LIFE』誌に 「イギリス人カップルの風変わりなスタイル」 として掲載された(1960年12月5日発行)。 撮影はケン・ヘイマン。 会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供
マリー・クワント
カラフルなレイン・ケープ 「スィンギング・ケープ」 (1967年)。 レインウエアの 「アリゲーター」 社向けデザイン 「アリゲーター by マリー・クワント」。 会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供
マリー・クワント
左)《ドレス「ミス・マフェット」を着るパティ・ボイドとローリングストーンズ》 1964年 Photograph by John French © John French / Victoria and Albert Museum, London
右)《マリー・クワントのカンゴール製ベレー帽の広告》 1967年 Image courtesy of The Advertising Archives
マリー・クワント
《マリー・クワントのタイツと靴》 1965年ごろ Image courtesy Mary Quant Archive / Victoria and Albert Museum, London
マリー・クワント
左)シームレスのマイクロ・メッシュストッキング。 右)バタリック社の型紙 「若いデザイナー」 シリーズとして出た、 マリー・クワントの「ミス・マフェット」(1964年)。 会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供

1966年にはマリーはファッションビジネスの功績により「OBE(大英帝国第4等勲章)」をエリザベス2世女王より受章した。

マリー・クワント
左)1966年  「大英帝国第4等勲章」 を受勲した時に着たドレス。 会場:「Bunkamura ザ・ミュージアム」 写真:筆者提供 右)《ベストとショートパンツのアンサンブルを着るツイッギー》 1966年 © Photograph Terence Donovan, courtesy Terence Donovan Archive. The Sunday Times, 23 October 1966

マリーと夫のアレキサンダー、そして実業家のアーチー・マクネアは三人四脚で、 戦後のファッションをデザインだけでなくビジネスの方法論も劇的に変化させた。
展覧会は70年代までだが、 マリー・クワントはその後どうなったのか。
それは展覧会と同時に公開された映画 「マリー・クワント スウィンギング・ロンドンの伝説」 に詳しい。

マリー・クワント

ザンドラ・ローズ、 ザ・キンクスのデイヴ・デイヴィス、 父のテレンス・コンランと共にマリーと家族付き合いをしていたジャスパー・コンランなどへのインタビューで、 彼女の人となり、 息子の誕生や夫の死、 ブランドを残すためにビジネスを譲渡したことまで語られている。

>>Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=Cx-rCBH7X40
https://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/22_quant.html

さて、 V&A の 「#We want Quant!」 に、 私だったらどういう協力をしただろうかと考えてみた。
1972年にロンドンのキングス・ロードにはじめて行ったが、 マリー・クワントの店はもう無く、 後発の 「Mr. Freedom」 やケンジントン・ハイストリートにはレトロな 「BIBA」 があった。
憧れの的だったジョン・マコーネルデザインの黒地に金色のアールヌーボーロゴが刻印されたBIBAのコスメが新宿高野で扱われるようになった時は狂喜したものだ。

しかし、 73年に発売されたマリー・クワントの10色のクレヨンは “Make up to make love in” というセンセーショナルなキャッチコピーと共に後発組全てをぶっちぎる勢いで、 マリー・クワントの面目躍如という感じで嬉しかったのを覚えている。
今、 手元に大切にとってあるこのクレヨンが、 BIBA と共にスウィンギング・ロンドンの残り香のする私の個人的マリー・クワント・アーカイブだ。

マリー・クワント
左)1973年に発売された 「マリー・クワント・クレヨン」(著者所有)。 隣にあるのは開催中の「マリー・クワント展」のミュージアム・ショップで売られているイングリッシュ・ティーの入った黄色い缶。 右)BIBAのコスメ。 写真:筆者提供

<関連情報>

□マリー・クワント展
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/22_maryquant/
会場:Bunkamura ザ・ミュージアム
会期:2022年11月26日(土)~2023年1月29日(日)

開催時間:10:00~18:00 (最終入場時間 17:30)、毎週金・土曜日は21:00まで (最終入場時間 20:30)
※状況により、会期・開館時間等が変更となる可能性があります
※本店は会期中すべての日程で <オンラインによる事前予約> が可能です。 ご予約なしでも入場いただけますが、混雑時にはお待ちいただく場合がございます。
休館日: 12月6日(火)、1月1日(日・祝)

□映画「マリー・クワント スウィンギング・ロンドンの伝説」
https://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/22_quant.html
会場:Bunkamura ル・シネマ

□「Quant by Quant: The Autobiography of Mary Quant」
https://www.amazon.co.jp/Quant-Autobiography-Mary/dp/1851776672


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2022/12/07

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