写真:ホンマタカシ 文・編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)
Sounds of Tokyo 42. (Shintomicho station)
24歳の時に福島から東京に出てきて、 もうすぐ90歳になります。
高校卒業後から数年は福島県庁で働きました。
当時、 国が全国的に杉の植樹を推進していたのですが、 それに関連して林道を開いたり山の見回りをする仕事をしていたんです。
今思えば決して悪い仕事ではなかったのですが、 漠然と 「ここでこのまま一生を終えたくないな」 「何か新しい仕事に挑戦できないだろうか」 という気持ちを抱えていました。
先に上京していた兄から東京の話を色々と聞いていたので、 「いつか自分も」 という思いもあったんでしょうね。
絵を描くのは高校の時から得意でした。 勉強が苦手だったから、 僕には絵しかなかったんです。
だからもし東京で新しい仕事に挑戦できるならば、 絵に関連したものが良いなぁと考えていました。
あの時代に地方から上京するというのは、 今でいうと外国に行くのと同じくらい、 もしかしたらそれ以上に凄いことというか、 強い憧れがありました。
そう簡単にはいかないだろうとは思いつつも、 東京に行けば何か新しい道が開けるんじゃないかという希望を胸に、 1957年に東京へ引っ越しました。
まだ銀座に路面電車が走っていた時代です。
その後まもなく、 1964年の東京オリンピックに向けてどんどん街が変わって行きました。
上京した翌年に 「東京タワー」 が完成して、 銀座の路面電車が姿を消して、 日本橋や京橋の上を首都高速が走るようになりました。
そうなる前の東京の景色は、 それはもう綺麗なものでしたよ。
最初に住んだ街は吉祥寺です。
兄と一緒に井の頭公園近くのアパートを借りたのですがその後弟も転がり込んできて、 男3人、 六畳一間で暮らしていました。 笑っちゃうでしょ (笑)。
でもね、 「貧乏くさいなぁ」 とかは全然思わなかったですね。 当時は周りもみんなそんな感じでしたから。
上京後は、 叔父の紹介で新富町にある小さなデザイン会社で弟子入りのようなかたちで働かせてもらうことなりました。
商品パッケージや紙袋、 ポスターのデザインをメインに百貨店の 「大丸」 や 「日本専売公社」 の仕事も請け負っていたりして、 規模は小さいけれどいい仕事をしている会社でした。
交通費は出してもらえましたが、 お給料は安くてお小遣い程度。 だから生活はギリギリでした。
吉祥寺から中央線で東京駅まで行って、 そこから有楽町経由で新富町まで歩くのが通勤ルート。 時々京橋経由で行くこともあったかな。 とにかく毎日よく歩きました。
新金橋という橋を渡ってすぐ右にある木造3階建ての建物の中に小さな会社が沢山入っていて、 務めた会社はその中の一つでした。 今はどんな建物になっているのかな。
仕事は楽しかったですよ。
ポスターを描く時に紙を一度水で濡らして木のパネルに張り付ける 「水張り」 という作業だったり、 ポスターカラーでパネルにむらなく色を塗る作業だったり。 あとはレタリングも学ばせてもらいました。
「手に職」 じゃないですけど、 ここでの仕事を身に着けたら僕は将来困らないだろうという気持ちで、 懸命に働きました。
お昼ご飯は大体蕎麦屋で、 食べるのはいつも決まってきつね蕎麦。
新富橋の近くに 「大野屋總本店」 という有名な足袋屋さんがあって、 蕎麦屋は確かその近くだったと思います。
キセルに詰まったヤニの掃除をする 「
芸者さんが置屋から客先に出掛ける時に、 おかみさんが火打石をカチカチと打つ光景を何度か見かけたことがあるのですが、 とても印象的でしたね。 今でも記憶に残っています。
築地や銀座とは一味違う、 下町情緒のあるいい街でしたよ。
上京して2年くらい経った頃、 吉祥寺の本屋で 『スタイル画教室:モード・エスプリ・デッサン』 という本に出合いました。
モードとデッサンはわかるけど、 はて ‟エスプリ” とは何だろう ? と。
この本との出会いがきっかけになり、 僕の人生は大きく動くことになります。
なんて上手な絵なんだろうと思ってページをめくっていると時折文章が入っていて、 その中に時々 「うちの生徒が」 という言葉が出てくる。
「この本を書いた
すっかりセツ先生の絵に魅了された僕は、 デザイン会社勤務と並行してセツの生徒になり、 吉祥寺の家から新富町と当時セツがあった高樹町へ通う日々がはじまりました。
凄く嬉しかったのは、 上野の 「東京都美術館」 の水彩連盟展に出品した作品が雑誌 『サンデー毎日』 別冊の表紙に採用されたこと。 もう、 有頂天になっちゃった。
何かが変わっていく感じがしたんでしょうね。 忙しかったですけど気持ち的に凄く充実していて 「これはいい流れだぞ」 なんて思っていました。
そんなある日、 学校で生徒募集のポスターをつくっている様子を偶然見かけました。
ちょうどレタリングをしている最中だったのですが、 その下手さを見兼ねてつい 「僕がやりましょうか?」 と口を出してしまったんです。
いざ手を動かしてみたら 「君、 こんなことが出来るのか!」 と驚かれて。
それがきっかけで 「生徒たちにもその技術を教えてくれないか」 ということになり、 生徒として入ったはずなのに先生になっちゃった。 並行して同僚と二人でセツ先生の助手をするようにもなって、 そのタイミングでデザイン会社を辞めました。
セツ先生は売れっ子だったから新しい生徒たちがどんどん入ってきたのですが、 みんな面白い人たちばかり。 気が付いたらあっという間に42年という時が過ぎていました。
1960年に入学して、 先生になって、 2002年まで。 随分と長居しましたよ(笑)。
とにかく毎日楽しかったから、 故郷の福島に帰ろうという気持ちには全くなりませんでした。
でも不思議なものでね、 まだ福島の訛りが残っていて、 未だに 「え」 と 「い」 の区別がつかないの。 東京に来てからもう65年以上経つのにね。
それにしても、 戸惑ってしまうくらい時間というのはわけもなく過ぎていくものですね。 とにかく早い。
人生って、 あっという間だね。
星信郎 Shinrou Hoshi
1934年生まれ。 水彩画家。 「セツ・モードセミナー」に入学後、 春日部たすく、 長沢節、 穂積和夫の元で絵を学び、その後、長きにわたり常任講師を務める。 2002年にセツ・モードセミナー退職後はフリーの画家として活動している。
東京と私