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つくる人 私たちの暮らしを豊かにする「もの」を生み出す「つくる人」とのトークセッション。

Vol.18 安東孝一 (プロデューサー)
夢をみる人/後編

「日本一の画商になる」 という夢を抱き、 歩み続けた40年。
文化とアートを独自の視点で発信し続けてきた安東さんが思い描く、
これからのアンドーギャラリーとは?

写真:川村恵理 文・編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)

Profile
安東孝一 (あんどう・こういち)

プロデューサー。 1954年宮城県生まれ。 1984年に 「アンドーギャラリー」 設立。 清澄白河での 「アンドーギャラリー」 運営と並行し、 アート・建築・デザインのプロデュース、 書籍執筆を行う。 「ANDO GALLERY CALENDAR(2002年~) 」、 「ANDO’S GLASS (2014年~) 」、 そして今秋発売の 「ANDO GALLERY DIARY」 などオリジナルプロダクトの企画も行う。 2023年春、 「アンドーギャラリー」 を閉廊。 今後はプロデュース業をメインに活動を続けていく。 主な著作に 『MODERN art, architecture and design in Japan』 (六耀社)、 『くうかん』 (ニューハウス出版)、 『インタビュー』 (青幻舎) などがある。

http://www.andogallery.co.jp
Instagram:@ando_school


前編はこちら


ニューヨークから帰国後の1984年、 「アンドーギャラリー」 を東京・青山にオープンしました。 約1年半の準備期間があったそうですが、 具体的にどのようなことをされたのでしょうか。

安東孝一さん (※以下敬称略):
物件探しはもちろんですが、 自分のギャラリーでは日本人の若手現代美術作家の作品を扱うということ、 そして 「建築とアートを繋げる」 試みに挑戦しようと考えていたので、 若手作家のリサーチをするために全国各地の学芸員さんに会いにいったり、 磯崎新さん、 安藤忠雄さん、 伊東豊雄さんなど 20 人くらいの建築家に会って話を伺いました。

お会いした学芸員さんからは、 どのようなアドバイスを頂きましたか?

安東:
日本では現代美術が売れないから、 そのコンセプトであればギャラリーはつくらない方がいいと言われてしまいました。 当時の日本ではアメリカの著名な現代美術作家を紹介する展覧会はまだほとんど行われていない状況だったので、 日本人の若手作家の作品となるとさらに難しいと。

「建築とアートを繋げる」 という思いの背景にあったものは何だったのでしょう。

安東:
ニューヨークでは、 アートと同時に建築や演劇、 様々なパフォーマンスなども見てきたのですが、 「アーティスト、 建築家、 デザイナーは ‟新しいもの” をつくっていく人たちだ」 という印象を持ちました。 それぞれ社会の中で果たす役割は違うけれど、 自分の中では ‟視覚で感じるもの” “かたちあるもの” という共通点を持った、 ある種同じものとして見ていました。 それは、 僕がどの分野の専門家でもないからこそ持てた視点だと思います。 自分のギャラリーでは、 そういうフラットな感覚で何かできないだろうかと考えました。
アンドーギャラリー安東孝一
ANDO’S GLASS

建築関係の話でいうと、 アンドーギャラリーは内装に相当なこだわりを持たれたそうですね。

安東:
ギャラリー空間において最も大切なのは 「ニュートラルである」 ということです。 空間に何か癖や匂いのようなものがあると良い展覧会が出来ませんから。 色々とこだわったために、 実は内装費だけで準備していたお金のうちかなりの額を使ってしまいました (笑)。

やはり、 ニューヨークで見たギャラリーを参考にされたのでしょうか?

安東:
そうですね。 ソーホーで訪ねたギャラリーはとにかく大きくて、 天井高も4~5メートルほど。 天井は剥き出しで、 とにかくミニマルで格好いい圧倒的な空間でした。 アンドーギャラリーの空間を一緒につくってくださったのは、 建築家の中込清さん。 完成後、 雑誌 『JAPAN INTERIOR DESIGN』 に紹介されたのですが、 それがきっかけとなって建築に興味のある方にもギャラリーが知られたというところはあると思います。

こけら落としは現代彫刻家の畦地拓治あぜちたくじさんでした。 何か記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。

安東:
畦地さんには本当にお世話になりました。 何しろ、 ギャラリーの運営の仕方や作品が売れた場合の作家への支払い方法など細かいことが全然わからなかったので、 色々教えて頂きながら進めたんです。 畦地さんのあとには根岸芳郎さん、 鈴木隆さん、 長沢秀之さん、 岡崎乾二郎さん、 田原桂一さん、 島久幸さん、 計7名の展示をしました。

アンドーギャラリーの運営期間は、 1年と1ヶ月。 20代後半で美術の世界に飛び込んで、 縁もゆかりも無い東京でギャラリーを開き、 1年の間に7人の作家の展示を行う。 冷静に考えずとも、 これはものすごいことだと思います。 ギャラリーを通して知り合った方々との付き合いは、 その後も長く続いたそうですね。

安東:
その後の自分の活動のベースをつくった1年だった、 といっても過言ではないと思います。 倉俣史朗さん、 横尾忠則さん、 三宅一生さんなど、 様々な業界の第一線で活躍する方々もギャラリーに足を運んでくださいました。 恐らくアンドーギャラリーのような場所は当時の日本には無かったはずだから、 もの珍しさで来てくださったのかもしれません。
アンドーギャラリー安東孝一

ギャラリーを1年と1ヶ月で閉じたのは……。

安東:
経済的な理由です。 青山という土地柄家賃も高額でしたし、 いい展示が出来たという自信はあるけれどビジネスとして成立させることが出来ませんでした。 とにかく展示をしてくださった作家さんたちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいで……当然、 かなり落ち込んでしまって。 そんな中、 色々な方が温かい言葉をかけてくださったんですが、 特に印象深かったのがインテリアデザイナーの杉本貴志さんの言葉。 「これが商売だったらもう立ち上がれないけど、 安東さんは文化をやったんだから生き残れるよ」 と言ってくださったんですね。 とても大きな励みになりました。

「プロデュース」 という仕事

ギャラリーを閉廊後、 2008年に清澄白河に再び 「アンドーギャラリー」 をオープンするまでの23年間はプロデュースの仕事に専念されました。

安東:
現実問題、 家族を養うために稼がなきゃいけないわけですが、 考えてみたら高校を出てすぐに父の会社に入ったから社会人経験が無いも同然で、 社会とどう接したらいいのかわからないんですよ。 年齢的な焦りもあってプロデュース会社2社に面接に行ったんですが、 結果は両方駄目で。

なぜプロデュース会社だったのですか?

安東:
今の自分に何かできるのか? ということを改めて考えた時、 「箱 (ギャラリー) が無くなってしまった今、 この先アートに関わっていくとしたらプロデュースという方法しかないだろう」 という結論に至ったんです。

プロデュースの仕事第1号は 「ART IN TOKYO ’86 IMA」 というイベントだったそうですが、 これはどういうきっかけで携わることになったのでしょうか。

安東:
面接を受けてご縁を頂けなかったプロデュース会社の方から、 「よかったらやってみませんか?」 というお誘いをいただきました。 恵比寿に元ビール工場として使われていた建物があって、 そこでビールの新商品を紹介するという内容だったのですが、 単に商品を飲んでいただくだけでは面白くないので、 展覧会を開催してそのオープニングに様々な文化人を招いて商品を体感して頂くことにしたんです。 彫刻は舟越桂さんと深井隆さん、 絵画は横尾忠則さんと山本富章さんの作品を展示しました。 横尾さんは、アンドーギャラリーにいらしてくださったことがきっかけでご縁を頂き、 ダメ元で展示への参加を依頼したところ新作の大作3点を制作してくださったんです。
アンドーギャラリー安東孝一

そして1987年から90年までの3年間は、 「西武有楽町店 (2010年閉店) 」 で 「クリエイターズギャラリー」 という企画展を担当されました。 この展示では国内外のプロダクトデザイナーを3年間で32人紹介されたそうですが、 この仕事はどういう経緯で?

安東:
僕はアート作品を展示するギャラリーに関してしかノウハウを持っていなかったわけですけど、 アートではなくデザインに置き換えて世の中を眺めてみると、 当時はまだ 「プロダクト」 というジャンルに日が当たっていないというか、 デザインを切り口にプロダクトが語られる場や媒体が無かったんです。 これはいけるんじゃないかということで、 自分から西武に企画提案をしました。

川上元美さん、 喜多俊之さん、 柳宗理さん、 フィリップ・スタルクさんなど錚々たる面々がラインナップされていますが、 これらの方々の存在やデザインしたものは、 もともと安東さんの中に知識としてあったのでしょうか?

安東:
それは……僕が新しいことをはじめる時のいつもの手法なんですけど、 雑誌とか本を眺めて 「どれにしようかな」 って(笑)。 それは冗談で、 とにかくリサーチをしました。

当時はまだ、 「プロダクトデザイナー」 という括りが無かった、 ということでしょうか。

安東:
僕が知る限りでは。 柳宗理さんに 「デザイナー括りで編集された、 日本のプロダクトの作品集ってあったりしますか?」 と伺ったら、 「ないと思う。 『工芸ニュース』 でも見てみたら」 って言われましたから。 あくまで大量生産の 「商品」 であって、 「作品」 であるという意識が無かったのだと思います。 そういう状況の中で、 西武有楽町店の展示ではプロダクトをデザイナー括りで紹介してみたということですね。

デザインした 「人」 を入り口にものを紹介するというスタイルが、 実に安東さんらしいですね。 今から35年くらい前の企画ですが、 展示に登場したデザイナーの皆さんが今も評価され続けているのが凄いことだなと思います。 安東さんの選ぶ目が確かだったということですね。

安東:
……とはいえですね、 話が矛盾するようではあるんですけど、 この仕事はどこか気恥ずかしい気持ちでやっていた側面もあるんですよ。

なぜですか?

安東:
だって、 「現代美術に命を懸けます」 と言っていた人間がデザインの仕事をやるなんて……。 今の時代は 「アート・建築・デザイン」 というのがフラットな関係であると世の中の大多数の人が感じていると思うんだけど、 当時はそうじゃなかったんですよ。 こっちは崇高なもので、 こっちは金目……的なね。 だから、 思い切ったことをやったなって今になって思います。
アンドーギャラリー安東孝一

「クリエイターズギャラリー」 が終了した1990年から、 オフィスビルや公共施設のアートワークやサイン計画、 インテリアデザインのプロデュースなど数多くのプロデュース案件を手掛けるようになっていきます。 「アート・建築・デザイン」 を一つの繋がりとして捉えてきた安東さんだからこその仕事だなと感じました。

安東:
僕の仕事の原点は、 1984年にはじめたアンドーギャラリーだと思っているんですけど、 第2の原点は1995年に発行した 『MODERN art,architecture and design in Japan』 という本なんです。 最初に出した 『PRODUCT DESIGN IN JAPAN』 (1990年) に関しては出版社の意向もあり既に世間的な評価を得ていた人も多く掲載したのですが、 『MODERN』 に関してはアート・建築・デザイン、 それぞれの分野で純粋に自分がいいと思った人だけを掲載しました。 何が言いたいかというと……本は2次元でしょ。 それを3次元にしたのがプロデュースなんですよ。

なるほど。 ギャラリーの運営からはじまり、 本の出版にプロデュース業、 一見するとジャンルがバラバラで別の仕事のように感じますが、 安東さんの中ではすべて繋がっているんですね。

安東:
本づくりって、 成功したものを集めて編集する作業、 みたいな側面があるじゃないですか。 だから褒めて頂いても少し違和感があるというか 「自分は何も血を流してないじゃないか」 という気持ちになってしまう。 要するに、 ‟無から有” の仕事ではないということです。 「無から有を見たい」 という自分の願望を、 プロデュースの仕事を通じて叶えることが出来ました。
アンドーギャラリー安東孝一
ANDO’S GLASS

お父さまから継いだ会社を辞める時の話でも、 「自分で道を切り開いていく立場になりたい」 とおっしゃっていましたね。

安東:
アンドーギャラリーのプロデュースには、 2種類あるんです。 依頼してくださった企業からお金を頂いてやるプロデュースと、 自分のお金でやるプロデュース。 後者が 「ANDO GALLERY CALENDAR (2002~) 」 や 「ANDO’S GLASS (2014~) 」 ということになります。 そういうものはリスクもあるし自分で責任をとらなきゃいけないわけですけど、 そういう方が良いものができるんじゃないですか。 人からお金を頂いてやる仕事は、 どうしたって不純物が入ってしまう。 そういうものです。

ふつうの人を幸せにする仕事

カレンダーやグラスなど、 オリジナルプロダクトをつくろうということになったのはどういう経緯なのでしょうか? そもそも前提として、 いつか自分の視点でものをつくってみたいという願望はあったのでしょうか。

安東:
それが無いんです。 2002年につくったカレンダーに関しては突発的というか偶然そういう流れになった、 という感じですね。 長年とても気に入って使っていたカレンダーがある時から手に入らなくなってしまい困っていた時に、 デザイナーの葛西薫さんに 「カレンダーってどうしてますか?」 と聞いてみたんです。 そうしたら葛西さんも 「市販のものでは良いものが無いから、 自分でデザインしたものをプリントアウトして使っている」 とおっしゃる。 「だったら葛西さん、 カレンダーつくりませんか?」 と。

なるほど、 そういう経緯だったのですね。 サイズはA3で、 罫線あり・なしの2タイプ。 値段は1540円 (発売開始当時は1260円) というリーズナブルさです。 この仕様はどのようにして決めたんですか?

安東:
色々なものを見て、 買って、 使ってみました。 「伊東屋」 のカレンダー売り場に行くと、 同じくらいのサイズのものが当時だいたい 700~800円、 高くても 1000円でした。 買ってもらえるものにするためには、 価格もかなり重要なポイントになるなと思いました。

著名なデザイナーが制作に関わっているカレンダーは当時も色々あったと思いますが、そういったものは素材や印刷にこだわったものが多く、 高価な印象です。

安東:
そうすると、 ふつうの人はなかなか高くて買えないですよね。 それじゃまずいだろうなって思いました。 カレンダーは毎年リピートして買ってもらわなきゃビジネスとして成り立たない。多分、 1200円が限界なんだろうなと思いました。
アンドーギャラリー安東孝一

個人的な話になりますけど、 私の友人で毎年このカレンダーを使っている女性がいて、 その人はデザインについて特に詳しいわけでもなく葛西薫さんのことも知らないんですね。 でも単純に 「使いやすいから」 という理由で毎年リピートしている。 すごくいいなって思いました。

安東:
それは嬉しいですね。 このカレンダーは決してデザイン感度の高い人に向けたものではなくて、 ふつうのおじさん、 おばさんにも買ってもらうことを想定してつくったものです。 どんなに良いものでも 「つくって終わり」 じゃだめで、 買ってもらってはじめて ‟商品” といえるわけですからね。 世の中にはジャンル問わず日々新しい商品がどんどん生まれていて、 その中で定番として生き残っていける商品なんてほんの数パーセントでしょう? その数パーセントに入るものをつくりたいと思いました。

これまでの安東さんのキャリアの中で、 いわゆる 「ふつうの人」 に焦点を絞った仕事って、 このカレンダーがはじめてだったんじゃないでしょうか。 ギャラリーのお客さま、 しかも作品を買ってくださる方というのはやはり裕福層の方だったりアートに通じている方であったり、 安東さんが先ほどおっしゃっていたカレンダーの購買層とは明らかに違いますよね。

安東:
これを言ったら元も子もないんですけど……僕、 画商に向かなかったんだなって思うんですね。 もちろん、 最初のギャラリーも2008年から15年間続けたギャラリーも全力を注ぎましたし、 「見せる」 ということに関しては最高の仕事をしたという自負があります。 でも 「売ること」 に関しては力及ばすでした。 その理由は簡単で、 たぶん僕は ‟ふつうの人” を喜ばせるほうが気持ちがいいタイプの人間だからなんです。

極端な話、 ギャラリーは10人の熱心なコレクターがいれば成立する世界ですものね。 それに気が付いたのはいつですか?

安東:
2度目のギャラリーを閉じた後かな……って、 つい最近ですね (笑)。 これから先の20年は、 オフィスビルや公共施設のアートワークやサイン計画、 インテリアデザイン等のプロデュースと、 アンドーギャラリーのオリジナルプロダクトのプロデュースを2本の柱にして仕事をしていきます。 後者に関しては、 カレンダーやグラス、 それから新作の 「ANDO GALLERY DIARY」 など、 誰でも気兼ねなく日常的に使えるものに絞って開発をしていきます。 自分がつくる商品でふつうの人の生活を豊かで幸せなものにしたい。 それが今一番思っていることですね。
アンドーギャラリー安東孝一
新作の 「ANDO GALLERY DIARY」。

プロと素人の真ん中を歩いていく

改めて、 画商としての歩みを振り返ってみていかがですか。

安東:
終わってみたら、 夢の中にいるようだったなぁという気がしています。 継続することは経済的に決して楽ではありませんでしたが、 国内の他のギャラリーが扱わない若手作家の展覧会を行なったり、 日本ではまだあまり知られていない海外の重要なアーティストの展覧会を実現できたこと……本当にいい仕事ができたなという満足感、 やり切った感があります。 そうそう、 最近久しぶりにニューヨークに行く前に読んだカーンワイラーの本を読みなおしたんですよ。 僕はこの本を通して 「若くて才能のある作家を応援していきたい」 という強い思いを抱いて40年間やってきたわけなんですけど、 当時の僕は大切なことを見落としていたことに気が付いてしまったんです。

どんなことですか?

安東:
作家を 「育てる」 ことと同時に 「売る」 ことも大事であり、 それらは50:50であると書いてある。 つまりカーンワイラーは、 優秀なビジネスマンでもあったわけです。 僕はロマンチストなものだから、 自分にとって都合のいい部分だけ読み取って40年間夢を見ていたんですよ。 その事実に最近気が付いたという(笑)。

カーンワイラーの魔法にかかっていたわけですね (笑)。 今回、 これまでの安東さんの歩みについてお話を伺う中で、 ‟安東さんの強み” のようなものが自然と浮かび上がってきた感じがあります。 一つは 「夢を見る力」 、 もう一つは、 何かに関わる時の 「プロであり素人である」 という姿勢。 アートに関する知識がほぼゼロだった安東さんが、 ニューヨークでの充実した1年からはじまってその時々で素晴らしいアーティストやデザイナーたちと仕事を共にできたのは、 安東さんの熱意と、 決して偉ぶらないフラットでピュアな視点があったからこそだろうなと感じました。

安東:
素人とプロの真ん中を歩いていく、 という気持ちはこれからも大事にしたいと思っています。 僕は素人代表でもあり、 プロでもある。 カレンダーをつくる時に葛西薫さんとデザインの話をした時もそうだし、 「ANDO'S GLASS」 をデザインしてくれたジャスパー・モリソンさんと接した時もそういうスタンスでした。 だからこそ、 色々な業界の一流の人達と会話のキャッチボールが出来てきたのかもしれないですね。
アンドーギャラリー安東孝一
アンドーギャラリー安東孝一
世界的デザイナーであるジャスパー・モリソンにデザインを依頼した「ANDO'S GLASS」。 サイズはSとTの二種類。 製作は「うすはり」でおなじみの松徳硝子が担当している。 写真上は、 ジャスパー・モリソンによるスケッチ。

ギャラリーもプロデュースの仕事も、 オリジナルプロダクトをつくることも、 大きな枠で考えると安東さんはずっと 「文化」 をつくり続けてきた方なんだなとも思いました。

安東:
文化であると同時に 「アート」 でもあるかもしれないですね。 極端な話をすると、 葛西薫のカレンダーと河原温のデイト・ペインティングって、 僕の中では一緒なんですよ。

ものとしての価値が?

安東:
「美」 が。 僕にとってはね。 文字だけで構成されているという意味では一緒なんです。 お金持ちのコレクターならば河原さんのデイト・ペインティングを買えるかもしれないけど、 ふつうは無理じゃないですか。 でも、 葛西薫のカレンダーは1000円台で買える。 金額は全く違うけど、 同じ幸せを生むんじゃないかなって思うんですよね。
アンドーギャラリー安東孝一

最後の質問です。 今の安東さんの夢は何ですか?

安東:
こういう場で話すのは恥ずかしいんですけど、 これからは妻のために生きていきたいと思ってますね。 僕が画商になると決意してからこれまで、 本当に迷惑と苦労をかけてきたんですよ。 僕はもうすぐ70歳になるんですけど、 70から90までは妻のために生きようと思います。

思い返してみれば、 家業をやめて画商になろうと思ったきっかけも、 お子さんにかっこいい父親の背中を見せたい、 ということでしたね。 それから40年走り続けて、 また家族に帰っていく。 素晴らしいことじゃないですか。

安東:
そうか、 そうなのかな? とはいえ、 プロデューサーとして、 これからも自分なりのアートは続けていきますよ。 夢を見続けないと、 生きていけないたちなので。
アンドーギャラリー安東孝一

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2023/09/01

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