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つくる人 私たちの暮らしを豊かにする「もの」を生み出す「つくる人」とのトークセッション。

Vol.18 安東孝一 (プロデューサー)
夢をみる人/前編

東京・清澄白河で15年間にわたり現代美術の魅力を伝え続けてきた 「アンドーギャラリー」 が、 2023年の春に閉廊した。
オーナーは安東孝一さん。
画商としてギャラリーを運営しながら、 様々な建築物のアートワークやサイン計画、 インテリアデザインのプロデュース、 そしてオリジナルプロダクトの企画までを行うユニークな活動を40年に渡り続けてきた人だ。
プロデューサーとして新たなスタートを切った安東さんに、 これまでとこれからについてお話を伺った。

写真:川村恵理 文・編集:落合真林子(OIL MAGAZINE / CLASKA)

アンドーギャラリー安東孝一
アンドーギャラリー安東孝一
アンドーギャラリー安東孝一

Profile
安東孝一 (あんどう・こういち)

プロデューサー。 1954年宮城県生まれ。 1984年に 「アンドーギャラリー」 設立。 清澄白河での 「アンドーギャラリー」 運営と並行し、 アート・建築・デザインのプロデュース、 書籍執筆を行う。 「ANDO GALLERY CALENDAR (2002年~) 」、 「ANDO’S GLASS (2014年~) 」、 そして今秋発売の 「ANDO GALLERY DIARY」 などオリジナルプロダクトの企画も行う。 2023年春、 「アンドーギャラリー」 を閉廊。 今後はプロデュース業をメインに活動を続けていく。 主な著作に 『MODERN art, architecture and design in Japan』 (六耀社)、 『くうかん』 (ニューハウス出版)、 『インタビュー』 (青幻舎) などがある。

http://www.andogallery.co.jp

Instagram:@ando_school


今年の春に、 オフィスを移転されたばかりだそうですね。

安東孝一さん (※以下敬称略):
はい。 清澄白河で15年続けてきた 「アンドーギャラリー」 をこの春に閉じまして、 新たなスタートを切りました。 新しいオフィスは、 ギャラリーがあった場所から目と鼻の先なんです。 ちょうどいい物件に出会って。

安東さんといえば、 CLASKA Gallery & Shop “DO” のロングセラー商品である 「ANDO GALLERY CALENDAR」 や 「ANDO’S GLASS」 の生みの親である、 というイメージがあるのですが、 他にもいろいろな顔をお持ちです。 今回は改めて安東さんのこれまでの歩みや 「アンドーギャラリー」 のこと、 そしてこれからのお仕事のメインとなるプロデュース業についてなど、 いろいろお話を伺っていきたいと思います。

安東:
よろしくお願いします。 いきなりプレッシャーをかけるようで申し訳ないんですけど、 たぶんこれが僕にとって最初で最後のインタビューになると思うんですよ。 これまで取材というものをまともに受けたことがなかったものですから。

それは、 敢えてそうされてきたんですか?

安東:
出たがりではあるからオファーがあれば出たんですけどね (笑)。 まぁそれは冗談で、 画商がアーティストよりも前に出るようなことはしたくないという気持ちがあったんです。 自分なりのブランディングというか。
アンドーギャラリー安東孝一

どんな背中を見せるのか

安東さんは五人きょうだいの長男で、 高校卒業後に一度家業を継がれたそうですね。

安東:
将来的に 100% 自分が継ぐことになるんだろうなという覚悟はあったのですが、 思っていたよりも早いタイミングでその時が来ました。 父が高齢だったこともあって、 高校3年の時に 「卒業したら働いて欲しい。 会社を引き継ぐ準備をしてくれないか」 と母から相談されたんです。 大学進学を考えてなくも無かったのですが、 勉強はそんなに好きじゃなかったので 「いいよ」 と。 会社は建設関係の下請けだったのですが、 中に入ってみたら見事な赤字会社で。 ストレスで顔面神経痛になってしまったほどです。 そんな状態で、 20歳の時に父から会社を引き継いで社長になりました。

20歳の若さで。 それは相当なプレッシャーですね。

安東:
ほぼ同じタイミングで結婚をして翌年には第一子が生まれたこともあって、 家族のために頑張ろうという気持ちもありましたし、 元々責任感も強い方なので何とかやっていました。 でもある時、 一人で車に乗っている時に自然と涙が出てきてしまったんです。 自分は長男で、 親の会社を継いで、 妻も子どももいる。 だからこのままずっとこの仕事をしながら人生を終えるんだと思ったら……ね。

とはいえ立場的に、 他の道を選択するということがなかなか考えにくい状況ですよね。

安東:
それでも 「自分は一体何をやっているんだろう?」 という思いがどうしてもぬぐい切れず、 22、 23歳の頃から 「会社を辞めて何か違うことをやろうか」 という思いが出たり消えたりする日々が数年続きました。 そんな時たまたま、 薬師寺の高田 好胤たかだ こういんさんの講演を聞く機会があって、 そこで聞いた話が大きな後押しになったんです。

どんな話だったんですか?

安東:
「子どもは正面を見て話をしている親の姿を見て育つのではなく、 背中を見て育つ」 といった内容でした。 なるほど、 じゃあ自分は子どもにどういう背中を見せようか? と本気で考えたんです。 お小遣いをあげたり何かを買ってあげたり、 ものやお金で会話をするだけじゃ駄目なんじゃないかと。 それよりも、 新しいことにチャレンジして冒険している親父の背中を見せたい。 もし失敗しても、 それはそれで……。

何に挑戦するか、 具体的に見えていたのでしょうか。

安東:
いいえ。 ただ漠然と 「自分で汗をかくことが大事だな」 ということと 「地に足がついた仕事がいいな」 という思いはありました。 つまり手に職をつけて何かしらの職人になりたい、 と。 身に着けた技は誰も奪うことができないじゃないですか。
アンドーギャラリー安東孝一

お父さまから引き継いだ会社は建設関係の下請けだったというお話でしたが、 誰かに仕事をもらう立場ではなく 「自分自身で道を切り開いていく」 ということへ憧れの気持ちもありましたか?

安東:
そうですね。 自分で何かを決めるとか結果を出していくとか、 そういうことに興味があったんだと思います。 あとは、 父の会社を継いだ ‟二代目” であるという立場が嫌でもあったんですよね。 二代目というのはなかなか複雑で、 失敗はもちろん、 成功しても評価をしてもらうことが難しいですから。

好きこそものの上手なれ

数年間自分が進む道について悩み考えたのち、 安東さんは 「画商になろう」 という思いを胸にアートの世界へと足を踏み入れることになります。 もともと美術・芸術の分野には興味があったのでしょうか? 

安東:
興味というか接点も無かったですね。 高卒だし、 両親も文化的なことに関心が高いわけではありませんでしたから。 子どもの頃や学生時代に 「絵が好きだった」 っていう記憶がないんですよね。 美術の成績も悪かったし。 でも、 作品を描くアーティスト、 つまり 「人間」 には興味がありました。 ムンクとかゴッホの生き方だったりね。

なるほど。 安東さんの場合、 アートへの入り口は 「人」 だったのですね。

安東:
そういうことですね。 ‟好きこそものの上手なれ” じゃないですけど、 何か新しいことをはじめる時に自分に合わないことをやろうとすると結構な努力が必要だけど、 好きなものや向いているものであれば、 それは努力にならないじゃないですか。 じゃあ、 自分が好きなものや興味があることは何だろうと改めて考えた時に 「人間だな」 と。 そういえば僕、 昔からソクラテスに憧れていたんですよ。 自分のことを ‟ソクラテス子” だと思ってるくらい。

古代ギリシアの哲学者ですね。 ソクラテスのどういうところに憧れていたんですか?

安東:
一言でいうと 「人間探求力」 ですね。 もしかしたら、 人生で一番影響を受けた人物かもしれないです。 様々な有力者と対峙して議論して、 「人はどう生きるべきか」 ということをひたすら探求していったというエピソードに昔から魅了されてきました。 だって、 最初は 「哲学者に転職したい」 って思ったくらいですから。

それはまた結構壮大な……。

安東:
ただ現実問題、 僕には家族もいるし、 飯を食っていかなきゃいけない。 だから転職するにしても、 ちゃんと ‟プロ” にならないといけないわけです。 持論として 「その分野における空間・時間的に、 自分がどこに立っているのか」 ということが判らない人がアマチュアで、 判る人がプロであると思っているのですが、 じゃあ哲学者としてプロになるためには一体これから何百冊読み込まなきゃいけないんだ ?! と考えたら気が遠くなっちゃって (笑)。 もともと、 活字はあまり得意ではありませんでしたし。

転職するにあたり、 その世界の全体像を把握する作業がまずは必要だ、 ということですね。 それにしても特にアートへの造形や興味が深いわけでもなかった安東さんが、 転職するにあたり 「画商」 という職業に行きついたということが、 意外過ぎるというか、 解らないというか……。

安東:
哲学の道は厳しそうだけど、 アートは活字ではなくビジュアルだから、 一から学ぶにしてもスムーズなんじゃないかと思ったんです。 動機が不純なんですよ (笑)。 それで試しに美術全集や画集を眺めてみたら、 当時の自分に一番響いたのが人間をあつかう作品を数多く描いたムンクでした。 作品を眺めていたらムンク自身に興味が湧いてきて、 ‟画商になったらアーティストと仕事ができるかもしれない” と思ったんです。 ……なんとなく伝わりますか?

画廊というのは画商が選んだ作品を展示して紹介する場所ですが、 作品そのものというよりも作品を描いた 「人」 を紹介したいという思いが強かったということでしょうか。

安東:
そういうことになりますね。

ものを見る目、 選ぶ目というのはその人の感性や感覚が大きく関わってくるのではと思います。 そのあたりはどうですか? 

安東:
自分は美大も出ていないし、 それまでの人生の中に 「文化」 というものはほぼ無かったわけですから、 そういう点では自分に自信がありませんでした。 そもそも、 当時の僕には何かを選ぶ時の判断基準や 「これを選びたい」 という強い気持ちが無かったと思うんです。 だから画商になると決めたからには、 アートの全体像を学ぶことはもちろん 「自分はこういうものを選ぶ」 という強い気持ちと自信を持つことも不可欠だと思いました。

仕事を辞め、 アートを学ぶためにニューヨークに渡ったのが1981年、 27歳の時です。 実際に行動に移すまで結構悩まれましたか。

安東:
それはもちろん。 昼間仕事をしている時は 「自分には家族がいる生活があって、 これから新しい仕事、 それも未知の仕事をはじめるのは現実的ではない」 と思うのですが、 夜になるとやっぱりアートの世界で仕事をしていきたい、 と思う。 その繰り返しでした。 3年間くらいそんな感じでウジウジしていたんですけど、 最後は見兼ねた妻から背中を蹴られてニューヨークへ行った感じですね。 弟には 「あんちゃん、 おかしくなった」 って言われましたよ。 ある日突然 「社長を辞めて画商になる。 ニューヨークに行く」 って言うわけですから。
アンドーギャラリー安東孝一

ニューヨークでの1年と3ヶ月

改めてお伺いしますが、 なぜニューヨークに行こうと思ったのでしょうか。

安東:
「目の職人」 になるためにまずは目を鍛えなくては、 と思ったからです。 決してニューヨークにこだわっていたわけではなくて、 古いものから新しいものまで、 画廊・美術館・博物館含めて世界中のアートを見てみたいという思いがありました。 最初に頭に浮かんだのがフランスのパリ。 やっぱり、 学校で習ってきた美術教育を踏まえるとパリなんですよ。

わかる気がします。

安東:
でも、 上京してグラフィックデザインの仕事をしている友人にその話をしたら 「今、 アートの最先端はニューヨークだよ。 見るべきは現代美術だよ」 と。 当時の観光ビザは3ヶ月だったので、 語学留学というかたちをとって渡米しました。

自分の目で実際に見た現代美術には、どんな印象を持ちましたか。

安東:
半年間くらいは全く理解できませんでした。 当時はニューペインティングが流行っていて、 僕が住んでいたイーストビレッジのギャラリーではキース・へリングの展覧会が開催されていたりしました。 他にもアンディ・ウォーホルの作品とか……見るもの全てが自分がこれまで受けてきた中高の美術教育とはかけ離れ過ぎていて、 ただ驚くばかり。 理解不能でした (笑)。

その 「わからない」 という感情って、 結構つらかったりしますよね。

安東:
正直大変でしたよね。 でも半年が過ぎた頃、 ミッドタウンのギャラリーでサイ・トゥオンブリーの作品に対峙した時、 「あ、 綺麗だな」 ってシンプルに思ったんです。 それは真っ白いキャンバスに青一色、 赤一色で描いたものだったんですけど 「こういうことでいいんじゃないか」 と、 自分自身に対して思うことが出来たんですね。

それは、 アートに対する向き合い方ということですか?

安東:
この作品を綺麗だと思う自分がいる、 それでいいんじゃないかと。 色々な本や批評家があれこれ言っていたとしても、 それは自分には関係ない。 目の前にある絵を綺麗だなと思う自分の目を信じよう、 という気持ちになれたということです。 「アートに縁もゆかりも無い僕でもこんなに素晴らしい体験が出来たんだから、 みんなも出来るんじゃないか。 そのお手伝いをしたい」。 もう、 これがすべてですね。 この気持ちで今までやって来ました。

ギャラリーは、 そういう 「体験」 ができる場であるということですね。

安東:
そうですね。 僕がトゥオンブリーの作品を通じて得たのは 「もう一人の自分に出会えた」 という感覚でもありました。 作品があって、 その前に自分がいて、 作品の向こうに描いた人がいて。 作家と同じ価値観を共有できたと思うと、 何だか ‟もう一人の自分” を見つけたような気がしてすごく救われたんです。 そう考えると、 ギャラリーというのはもしかすると 「教会のようなもの」 として機能するんじゃないか、 というイメージも湧いてきました。
アンドーギャラリー安東孝一

アートは言語外言語である

滞在中は、 作品を見る以外に現代美術の日本人作家にもお会いになったそうですね。

安東:
はい。 やはり現代美術の概況みたいなものは知りたかったので、 誰かしらに直接話を聞きたいと思いました。 日本語が出来て現代美術事情に明るい人は……と考えた時、 ニューヨークにいる現代美術の作家に会えないだろうかと考えたんです。 それで、 日本でいう 「タウンページ」 みたいなもので連絡先を調べて、 河原温かわらおんさん、 荒川修作さん、 桑山忠明さんに電話をかけてみたところ3人とも電話に出てくださり、 実際に会っていただくことが出来ました。

誰かの紹介というわけでもなく、 そんなに簡単に会ってくれるものなんですね。 差し支えない範囲で、 どんな話をしたかお聞かせ頂いても良いですか?

安東:
特に印象的だったのは、 3人の中で一番最初にお会いした河原温さんでしょうか。 自分の中では今でもアートの師は河原さんであると思っているくらい、 大切な出会いになりました。 初対面の27歳の若者相手に、 9時間半も話をしてくださったんですよ。 電話では 「忙しいから2時間しか話せない」 とおっしゃっていたのに(笑)。

河原温さんは 「デイト・ペインティング」 で、 1980年代当時すでに世界的な評価を受けていた作家です。 とても貴重な経験でしたね。

安東:
その後もニューヨークでお会いできる機会が何度かあって、 ある時僕が無邪気に 「東京に帰って画廊をつくったら、 河原さん、 展覧会をやってくださいますか?」 とお願いしたことがあったんです。 そうしたら河原さんが 「君がつくるギャラリーの理念はなんだ」 とおっしゃる。 その場では咄嗟に 「まだわかりません」 と答えたのですが、 改めて自分が出来ること、 やるべきことは何なんだ? ということを深く考えるきっかけになりました。 それで出た結論が、 日本の現代美術の若い作家だけを紹介するギャラリーにしよう、 ということだったんです。
アンドーギャラリー安東孝一

ニューヨークに行く前に読んで大きな影響を受けたという、 美術商 ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの書籍 『わたしの画廊 わたしの画家』 でも、 「若く才能のある作家を応援し、 世の中に知らせていく」 という考え方に強いシンパシーを感じたそうですね。

安東:
そうですね。 やはり自分がやるべきはそういうことなんだと気持ちを新たにしました。

美術関連以外で、 何か貴重な出会いや気づきはありましたか?

安東:
河原さんにお会いする前、 夏休みの1ヶ月間グレイハウンド (長距離バス) でアメリカを一周した時のことです。 グランドキャニオンに立ち寄った時、 水が流れ落ちる谷の下をぼーっと眺めていたら、 急に 「ここはどこ、 私は誰」 状態に陥ってしまって。 自分は27歳で、 妻もいて子どももいて、 親から引き継いだ仕事を捨ててニューヨークに来てしまった。 もちろん自分ではわかっていたつもりだけど、 かなり特殊な状況じゃないかと。 自分はこれから何をしていこうとしているのか、 そもそもどこに立っているのか……訳がわからなくなってしまって。

後に河原さんから投げかけられる 「君のギャラリーの理念はなんだ?」 という質問にも繋がっていきますね。

安東:
画商になると決めたけど、 自分にとって画商とは何か? そもそもなぜ画商なのか。 その時にふと思い出したのが旧約聖書の 「創世記」 の中に登場する 「バベルの塔」 なんです。

地球上の人間はかつてひとつの言語で同じ言葉を話すひとつの民族で、 技術を手に入れた人間が神と対等であることを示すために天に届くような高さの塔をつくろうとして……。

安東:
人々が自分の力を脅かすのではないかと危惧した神が、 ひとつしか無かった言語をバラバラにして、 人と人がコミュニケーションできないようにしたんですよね。 そうなったことで、 お互いを理解することが出来なくなり、 塔の建設も中止になった。 人間は言葉があるから自分の感情や思いを伝えることが出来ますよね。 だけど、 言葉にならないもの、 つまり言語化出来ないものは無いものとしてきた。

私たちの日常生活の中でもよくある、 「うまく言葉にできないからいいや」 みたいなことですね。

安東:
そうそう。 だけど、 言葉ではなく 「かたち」 じゃないとコミュニケーションできないこともあるのではないかと思ったんですよね。 つまり、 アートは人と人のコミュニケーション手段のひとつとして機能するんじゃないかと。 ということは、 言語外言語、 視覚言語としてアートを扱う画商がいてもいいのかもしれない、 という風に思いました。
アンドーギャラリー安東孝一

ニューヨークで過ごした約1年で、 ご自分の立ち位置だったり、 目指したい画商としての在り方がクリアになったということですね。 その後の安東さんの画商としての長い歩みを考えると、 じつに実り多き時間でしたね。

安東:
そうですね。 僕はニューヨークで得たもので40年食ってきたから(笑)。 冗談じゃなくて、 あと20年くらいは食っていけると思ってます。 そうだ、 話が飛ぶようですが、 三島由紀夫の 『金閣寺』 という作品があるじゃないですか。 金閣寺のてっぺんに取り付けられた鳳凰について 「ほかの鳥が空間を飛ぶのに、 この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、 永遠に、 時間のなかを飛んでいるのだ」 というくだりがあって、 それが凄く好きなんです。 この一節を読んでからずっと 「時間」 というものへの憧れがあるんですよね。 今の自分は無様でも、 時間の中、 夢の中では優雅に飛んでいるって思える。 だからいつも、 5年後、 10年後のことを夢見てるんですよ。

ということは、 過去はあまり振り返らない?

安東:
基本的には今が一番大事で、 あとは未来しか見ていないかな。 過去のことはあまり振り返らない……というより興味が持てない。 だから、 もし今回の取材が来年行われていたとしたら、 ニューヨーク時代のことやギャラリーのことについて語る気持ちになれなかったかもしれません。

後編へ続く

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2023/08/30

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