Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、東京在住。武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。
2度目の緊急事態宣言で多くの美術館が閉館した。
「東京都美術館」の「イサム・ノグチ 発見の道」展は当初昨年の10月3日(土)〜12月28日(月)の開催を予定していたが、延期になり、今年ようやく開催されることになった。
しかし、4月23日の内覧会の直後から1ヶ月以上も閉室したままだった。それがついに6月1日から再開した。
展覧会は3フロアの構成になっていて、最初のフロアは1940年代から晩年までの様々な素材で制作された彫刻の数々が並ぶ第1章「彫刻の世界」。
ブロンズやアルミニウムの作品は、マーサ・グラハムのダンスの舞台を手がけた'40年代のものだ。
壁際に展示された陶製の片口のような「ティーカップ」(1952年)は3点とも釉薬が違っている。
1951年に山口淑子と結婚し、鎌倉の北大路魯山人邸敷地内の茅葺の民家で新生活をはじめアトリエを構えた頃の作品だろう。
「日本民藝館」に置かれていても違和感がないようなうつわだ。
「ヴォイド」(1971年)もある。
これは牟礼の「イサム・ノグチ庭園美術館」の蔵の内に設置されている高さが3.6mもある巨大な「エナジー・ヴォイド」(1971年)の約3分の1のスケール。
なんといってもこの部屋で視線を奪うのは、圧倒的な数の「あかり(Akari)」と名付けたシーリングライトと花崗岩の「黒い太陽」(1967-69年)だ。
「あかり」は光の彫刻(Light Sculpture)だ。照明というプロダクトのためにデザインされたものではない。
イサム・ノグチは彫刻家であってデザイナーではない。
展示会場で公開されているフィルムで「アートが美術館や少数の個人の私的コレクションのなかにしか見出せないのは残念なことだ」とイサム・ノグチは語っている。
そして彼は1949年に、人々が容易に手にすることができるアート=光の彫刻を岐阜提灯の伝統工法でつくり上げた。それはノグチが考える「世間に有用なものとして日々の暮らしの活力源となるアート」の使命を果たすものとなった。
YouTube > The making of Akari at Ozeki & Co. Courtesy of Vitra.
その後ノグチは200以上ものさまざまなかたちや大きさの「あかり」を生み出したという。
ノグチ・ミュージアムのHPを見るとTable、Celling、Floorのカテゴリーで144タイプがラインナップされ、今もつくり続けられていることがわかる。
https://shop.noguchi.org/collections/akari-light-sculptures
次のフロアは第2章「かろみの世界」で、ここにも美しく「あかり」が展示されている。遊具「プレイスカルプチュア」(1965-80年頃)や川の石をイメージしてつくられたという「フリーフォーム ソファ」と「オットマン」(1946年)の赤が目を引く。
このソファのシェイプは、慶應義塾大学にあった谷口吉郎設計の「萬來舎」(1951年)内のノグチルームの流線型のテーブルや、それに沿うようにつくられた長椅子のカーブなどを思いおこさせる。
次の章へのインターバル的なスペースにノグチが好んで使った石のサンプルが並んでいた。
香川の庵治や牟礼で産出する花崗岩 庵治石、兵庫の本御影、岡山の万成石、スウェーデン産の花崗岩、玄武岩などが解説付きで並べられ、石の彫刻を制作するイサム・ノグチの姿を追ったフィルムも流され、石とノグチの関係を考えるきっかけになる展示だ。
石といえば、12年前、「イサム・ノグチ庭園美術館」開館10周年の記念シンポジウムが草月会館で行われ、磯崎新、谷口吉生、安田侃、篠山紀信など錚々たる人が登壇し、それぞれが自分にとってのイサム・ノグチを語ったのを聞いたことがあった。
彫刻家・安田侃は大理石採掘で有名なイタリアのピエトラサンタでイサム・ノグチの助手も務めたことがあったという。
その時の石切り場でのエピソードがこれだ。
「イサムさんは石切り場に転がる大小さまざまな石をながめまわして、僕に向かって『いいね、いいね、この石にはいろんな迷いが詰まっているじゃないか』と言った」そうだ。
草月会館にノグチによる石と水の広場「天国」の製作を頼んだ父・蒼風と2代に渡って交流のある勅使河原宏は、こう書いている。
「イサムさんの近年の石の彫刻をみていると、石の持つ美しさを生かしつつ、自分の意志は最小限に加えるだけにとどめている。『宏さん、これらの作品群は、自然(石)の許してくれた過ちですよ』と、高松のアトリエを案内してくれながら、もらしたものだ。自分は石を傷つけている。なのに石は許してくれている…。そのとき芸術家と自然は一体化したのだろう。自己の芸術感を謙虚に、しかし決然と表明してくれた、これもすごい言葉だ。」─産経新聞(1989年1月26日)より抜粋。
これらはイサム・ノグチと石との関係を理解するための序奏のようなエピソードだ。
最後の第3章は「石の庭」だ。
ニューヨークと牟礼に二つの制作拠点を持っていたノグチは、そのどちらにも石の彫刻を配した「石の庭(Sculputure Garden)」をつくっていた。
クイーンズに構えたアトリエは1985年から「Isamu Noguchi Garden Museum(イサム・ノグチ庭園美術館)」として公開され、その後「The Noguchi Museum(ノグチ ・ミュージアム)」と名称を変えた。
YouTube > The Noguchi Museum
YouTube > Introdution to The Noguchi Museum
1969年、ノグチは五剣山を背後に屋島の雄大な山の眺めを望む香川県高松市牟礼町に、もう一つの仕事場と住居を構えた。日本家屋に住まい、自身が選んだ蔵を移築し、石壁のサークルで囲まれた作業場があった。それをそのまま屋外彫刻庭園にした「イサム・ノグチ庭園美術館」は、ノグチの死後10年ほどを経て1999年に開館した。「石の庭」を含む広大な敷地全体、空間自体が「もう一つの彫刻」とも言える場所だ。
その牟礼からの石彫群がこの会場に展示されている。
やはり牟礼の大自然に抱かれて見た彫刻とはまた印象が違って見える。
空間全体が「彫刻」であることの画期的な試みの一つが幻に終わったことがある。建築家・ルイス・カーンとの協働になるはずだったニューヨークの「リバーサイド・ドライブ・パーク・プレイグラウンド」の企画だ。
1961年から何年もかけて2人の巨匠は衝突を重ねながら案を完成させ、施工の承認をNY市長からも取り付けるところまでこぎつけた。が、計画は市長の交代であえなく潰え去ってしまったのだ。
ルイス・カーンの代表作の一つにテキサス・フォートワースにある「キンベル美術館」がある。
その南庭に「星座」と題された4つの玄武岩の作品が置かれている。
これはカーンの死から7年後の1983年に、実現することのなかった共同制作のパートナーにノグチが贈ったオマージュで、唯一実現した二人によるランドスケープだ。
ここが私にとっての最も感慨深いノグチの「石の庭」だ。
<関連情報>
□「イサム・ノグチ 発見の道」
https://isamunoguchi.exhibit.jp
会期/2021年4月24日(土)~8月29日(日)
開室時間/9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)
会場/東京都美術館
観覧料 /一般 1,900円 / 大学生・専門学校生 1,300円 / 65歳以上 1,100円
〇観覧は日時指定予約を。詳細は特設WEBサイトをご覧ください。
□萬來舎
https://kkaa.co.jp/works/architecture/banraisha/
□『萬來舎 谷口吉郎とイサム・ノグチの協奏詩』(杉山真紀子 著 2006年 鹿島出版会刊)
https://honto.jp/netstore/pd-book_02727628.html
□草月会館 草月プラザ
https://www.sogetsu.or.jp/about/hq-building/plaza/
□ノグチ・ミュージアム The Noguchi Museum
https://www.noguchi.org
□イサム・ノグチ庭園美術館
http://www.isamunoguchi.or.jp
□キンベル 美術館 Kimbell Art Museum
https://kimbellart.org
https://kimbellart.org/art-architecture/architecture/kahn-building
□『PLAY MOUNTAIN イサム・ノグチ + ルイス・カーン』(和多利志津子 企画・監修 1996年 マルモ出版刊)
https://totodo.jp/SHOP/C2-0149.html