Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、東京在住。武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。
骨董業界では「目垢がつく」という言葉を使うことがある。
「手垢がつく」のように物理的に汚れることをいうのではなく、美術品が多くの人の目に晒されることによって、その希少性と新鮮さが失われて感動が薄れるということらしい。
「まだ誰の目にも触れていない」逸品を珍重する骨董界独特の言い回しだ。
ゴッホの「ひまわり」、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」、ムンクの「叫び」、北斎の錦絵「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」……。
これら教科書に載っているような名画とされる美術作品は、反芻され過ぎて骨董屋でなくても避けて通りたくなるし、「本物」を確認するための展覧会詣でには食指が動かない。
フランス公共放送「France Télévisions」の東京オリンピックのCM動画は、全編北斎をイメージしたものだった。
YouTube > Sumo - Jeux Olympiques d'été Tokyo 2021 - France TV -
YouTube > Making of] France Télévisions - JO 2021 ‘Sumo’
障害馬術の障害物を日本趣味のモチーフで飾り立てた中にも、北斎の「神奈川沖浪裏」がまるで文化祭かと見まごう体で扱われていて唖然とした。
https://www.horseandhound.co.uk/features/olympic-eventing-showjumping-course-pictures-756269
パスポートや2024年からの新千円札に使用されるに至っては、眼垢どころか手垢もつくことだろう。
ポピュラー過ぎるということは二次創作やパロディーにも使われ放題になることでもあり、センスの悪い扱われ方をすれば魅力がどんどん摩滅していく。
さて、今「東京ミッドタウン・ホール」では「北斎づくし」展が開催されている。
ここでは、見慣れた名画を展覧会場で確認するという虚しいルーティンに陥ることはない。
「まだ見たことのない」北斎を、自分自身で発見するチャンスがあるからだ。
まず圧巻は「北斎漫画」。
展示会場に入ると床、壁、天井からの垂幕、展示ケースまで目に入るもの全て=視界全体が北斎漫画で満たされる。
やがて「北斎漫画」初編から15編までの全冊が、見返しから奥付までの全ページが見開きで展示されていることに気付き驚く。
初編は28見開き、ということは初編だけで28冊の北斎漫画が展示されているということだ。
それが15編すべてということは……と誰でも計算したくなるだろう。
この展覧会が、浦上満という北斎漫画のコレクターの第一人者のコレクションで成り立っていることを知るとうなずける。
なぜ浦上氏が「北斎漫画」に魅せられたのかは彼の著書『北斎漫画入門』(文春新書 2017年刊)に詳しい。
浦上氏は18歳の時、浮世絵コレクターだった父と訪れた帝国ホテルの向かいにあった浮世絵商で、「出会い頭の衝動買い」のように1万円で「北斎漫画」を購入する。
学生だった浦上氏にとって1万円は大金だったが、錦絵とは桁違いに安い価格だったという。
「当時(1970年頃)は、コレクターも美術館も、美術商ですら『北斎漫画』に対してノーマークだったのです」と書いている。
そして、今に至るまでの50年の間に約1650冊の「北斎漫画」を収集することになった。
それが惜しげもなく展示されているということなのだ。
この本には「北斎漫画」の真価を最初に見出したのは19世紀半ばのフランス人のブラックモン、ゴンクール兄弟、ルイ・ゴンスなどであることが書かれている。
そして「北斎漫画」を最初に評価した地、パリのグランパレで2014年に開催された「HOKUSAI」展にも言及している。
世界各地から集められた700点以上の北斎作品を展示する大規模な「北斎展」の会場をデザインしたのは、パリにアトリエを構える建築家・田根剛だ。
YouTube > Hokusai, l’exposition
展覧会場では、「ジャポニズム」をテーマにしたエミール・マネやエドガー・ドガ、ドビュッシーの楽譜画など、多くのフランス人アーティストに与えた影響を紹介する部屋から展示がはじまる。
そこからは、春朗・宗理・葛飾北斎・戴斗・為一・画狂老人卍までの「画号」によって展示空間が構成されている。
2階へ続くPalier大階段では、北斎が尾張・名古屋西本願寺別院で畳120畳大の紙に描いて見せたという巨大な達磨の顔が出迎える。また15mもある吹きぬけには、北斎漫画が「Animated Hokusai」として軽妙な動きを見せる。
YouTube > Animated Hokusai. Grand Palais 2014
「北斎の生涯における創作の質と量を体感してもらおうと、各部屋の大きさが創作の時間と連動し、北斎の初期の画名 勝川春朗時代から次の宗理などその創作の変遷を体験していき、晩年の深淵な画狂老人卍の世界まで辿り着くという展覧会にしました。」
と田根さん。3ヶ月間の会期中、36万人もの人が北斎の膨大な創作に圧倒されることになった。これは実際にパリで見てみたかった展覧会だ。
今回の「北斎づくし」展の会場構成も、田根剛の手によるものだ。
「北斎漫画」は絵手本として出版されたものだが、神羅万象全てを描き尽くそうとする北斎の画狂ぶりが最も明確に感じられる作品でもある。「『北斎漫画』の部屋は描いても描いても描き足りない北斎の仕事場をイメージした」と田根さんは言う。北斎の頭の中に入り込んだかのような会場だ。
続く「冨嶽三十六景」全て、「富嶽百景」全て、それに加えて「読本」の劇画まで、それぞれの作品の特徴を際立たせる展示もさすがだと思う。
パリ会場で「北斎漫画」を動かして見せた遠藤豊が、今回の展示でもテクニカル・ディレクションで参加しているので、それも見ものだ。
ブックデザイナーの祖父江慎の手による、今回の展覧会の公式図録がまた桁違いだった。
546mm×406mmのD3新聞紙サイズの大判。
これを見て、世界の書店でよく見かける高岡一弥アートディレクションの『HOKUSAI MANGA 北斎漫画』(パイ・インターナショナル 2011年刊)を思い出した。
この本も大きかった。304mm×210mm A4変形、696ページ、厚さ6cm。
優れたアートディレクターの手が加わると、北斎の新しい魅力が引出されるという見本のような本だ。
浦上氏に田根さんを引き合わせたのは、この本のアートディレクター高岡一弥氏で、惜しくも氏は2019年10月に急逝されてしまったが「北斎漫画を大々的に見せる」というアイデアは高岡氏が提案されたもので、それが生かされるかたちになったという。
https://pie.co.jp/news/4846536/
江戸から明治まで64年もの間刊行され続けた「北斎漫画」は、全ページ合わせると約3600の絵が描かれているらしい。
はじめて出会う絵がほとんどだろうし、誰でも必ず気になる絵が見つかるはずだ。
ちなみに私の推しは、五編の建築や鳥居の詳細図と、そのトップに君臨するかのような十一編の「三才鳥栖」。
この絵を見たとたん、京都・太秦にあるという不思議な鳥居だとすぐに分かった。
水の流れ、波の表情、風の強弱、花鳥風月、人の営み……何にでも興味を持った北斎の建造物への視線が新鮮だった。
ちなみに北斎は川柳にも熱中していたらしい。
その中で印象に残った一句。
─「大伽藍 墨坪からの蜃気楼 万字」 文化14年(1817)
<関連情報>
□生誕260年記念企画 特別展「北斎づくし」
会期:2021年7月22日(木、祝)~9月17日(金)
開館時間:11:00~19:00(最終入場18:30)
休館日:8月10日(火)、8月24日(火)、9月7日(火)
会場:東京ミッドタウン・ホール [東京ミッドタウンB1]
〒107-0052 東京都港区赤坂9丁目7-2
※混雑緩和のため、事前予約制(日時指定券)を導入しています。
https://www.e-tix.jp/hokusai2021/
□『北斎漫画入門』浦上満 著 (文春文庫)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611454
□『HOKUSAI MANGA 北斎漫画』(パイ・インターナショナル)
https://pie.co.jp/book/i/4069/?lang=europe
□展覧会図録『北斎づくし』(青幻舎)
https://www.seigensha.com/books/978-4-86152-sp01/