Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、東京在住。武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。
熊谷守一の絵をはじめて見たのは小学生の頃で、母が定期購読していた『婦人之友』の表紙だったと思う。
赤い花(彼岸花)の上のカマキリ(1958年9月号)、樹木にはりついたようなセミ(1961年8月号)、ある時は絵の上に大きくカタカナの名前が書かれていて、子どもが描いたような絵に不思議な印象を受けた。
その絵が熊谷守一という画家の絵だと知ったのは、かなり経ってからだ。
2017年12月から2018年にかけて「東京国立近代美術館」、その後「愛媛県美術館」へ巡回した「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展が開かれた。
この展覧会は様々な視点から熊谷守一を考察する興味深い展示で、その中で「守一になった守一 1950年~70年代」という章があり、「1950年代に入ると赤い輪郭線に囲まれた明快な色と形を特徴とする作風がほぼ完成した。」とあった。
私の見た『婦人之友』の表紙画はまさしく、その作風が確立した頃のものだったのだろう。
この展覧会と時を前後して熊谷守一を主人公に晩年の日々をフィクションで描いた映画「モリのいる場所」が公開された。
http://mori-movie.com
https://www.youtube.com/watch?v=j60fTJHgnKk
この映画には画家が自宅の庭で過ごした時間がよく描かれている。
守一は軽い脳卒中の発作が起きた76歳から97歳で逝去するまでほとんど自宅で過ごし、
「庭にゴザを敷き寝転んでは、庭にくる猫や蝶・蟻などの昆虫、草花を眺めてはスケッチするといった生活になった」(画家・熊谷守一略歴より)そうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=1P1FCZOi7cc
草木や小さな命に満たされたこの庭は、守一には宇宙のように広大なものだったのだろう。
けれど、藤森武の撮影した写真にあるジャングルのような庭はわずか50坪にも満たないものだったという。
「豊島区立 熊谷守一美術館」で現在開催中の「熊谷守一美術館37周年展」の展示で、その詳細がわかる。
この美術館は守一の終の住処の跡地約80坪の敷地に建てられたもので、守一の亡き後もこの家で暮らした妻・秀子が逝って一年後の1985年に、次女・榧によって私設美術館として開館した。その後2007年に守一作品153点が豊島区に寄贈され「豊島区立熊谷守一美術館」となった経緯があるそうだ。
通常1階と2階の展示室は常設展示、3階のギャラリーは企画展示になっているが、特別企画展の今回は3つの階全てが守一作品で構成されている。
1階の第1展示室は、守一の生地・岐阜県中津川付知にある「熊谷守一つけち記念館」より借用した作品20点を核に「守一の庭」をテーマにした展示となっていて魅力的だ。
守一が描いた庭の植物や昆虫の絵が春夏秋冬の季節の流れに添って展示されている。
春はたんぽぽに蝶、チューリップにあやめ。夏は揚羽蝶やどくだみ、秋は彼岸花、冬は柿や柘榴。守一の庭を訪れ樹木や草花を眺めているような気持ちになる。
その第1展示室の片隅に守一が弾いていたチェロが置かれていた。
2階の第2展示室は「裸婦」(1900年頃)から「夕暮れ」(1970年)、晩年の書や墨絵まで、年代順に守一の代表作が展示されていて壮観だ。
後に妻となる秀子を描いた「某婦人像」(1918年)と並ぶ守一の「自画像」(1935年)、21歳の若さで夭逝した長女・萬に供えた卵を描いた「仏前」(1948年)などを見ていると、自身も家族も、幸せも悲しみも絵に描かずにいられない守一が浮かび上がってくる。
3階の展示室は、守一の遺品や生活資料が展示されている。
イーゼルの周囲には守一手製の直方体の椅子や棚、絵の具箱。壁には帽子やマント、愛用した袴の一種カルサンが掛蹴られ、そしてカセットレコーダーまである。
そのカセットのA面は「無伴奏チェロ組曲第1番」、B面は「無伴奏チェロ組曲第2番」。ハンガリー出身のチェリスト ヤノーシュ・シュタルケルの演奏で、守一の若い頃から生涯の親友だったチェロ奏者であり作曲家、バッハの研究者でもあった信時潔との交流から、チェロを弾き、バッハを好むようになったそうだ。
信時潔の長女は、守一の長男・黄に嫁いでいる。
1階のCafé Kayaでは次女で館長でもあった彫刻家・熊谷榧作のうつわでコーヒーが楽しめ、様々な熊谷守一関連の書籍を読むことができる。
谷川徹三監修の『熊谷守一 クロッキー集 鳥獣虫魚』(神無書房 1975年刊)に寄せられた白洲正子の文章「ほとけさま」は、数々の熊谷守一論など足元に及ばないほど卓越している。
「体裁をつくろったものを排し、人でも物でもその特質が剥き出しになっているものを愛した」(青柳恵介「ウブな美しさ」より)白洲正子は、昭和48年の春「知人を介して、熊谷先生に字を書いて頂いた。何でもいい、お好きな言葉を、とお願いしたら、平仮名で『ほとけさま』と書いて下さった。」「それはおのずから頭の下がるような無心な字で、正に日本の『ほとけさま』はこういう姿をしていると、合点させられるものがあった。」と書いている。
そのお礼を述べに行こうと思いたった正子は、無欲な画家に何をお礼にさし上げようかと半年ほど迷う。ようやく黒田辰秋の新作の欅の盆に出会いゆずり受けようとするが、黒田から断られる。「熊谷先生に差し上げたい」と再度頼むと「喜んでゆずるといわれ、お代は受けとって下さらなかった。無欲な人たちというのは、まことに始末の悪いものである。」(白洲正子「ほとけさま」より)。
熊谷は木曽の付知の生まれで、若い頃に山から木を伐採し木曽川に落とす作業に従事したことがある。黒田は、大物を制作する時に付知に籠る。お盆の材も木曽の欅だ。二人の芸術家は正子の中で繋がったのだ。
熊谷守一が妻の実家の援助で豊島区千早町(当時長崎町)に自宅を新築したのは昭和7年(1932年)で、その頃は大根畑と麦畑に農家が点在する辺鄙なところだったそうだ。今はマンションや住宅が立ち並んでいて当時を偲ぶべくもないが、鬱蒼と繁る木立に囲まれた家屋を見つけた。
熊谷家のわずか50坪に満たない庭の「深山幽谷」もこんな風情だったのだろうかと思いながら、帰路に着いた。
<関連情報>
□豊島区立 熊谷守一美術館 特別企画展「熊谷守一美術館37周年展」
住所:東京都豊島区千早2-27-6
開催期間:2022年4月12日(火)~7月3日(日)
休館日:5月2日、9日、16日、23日、30日、6月6日、13日、20日、27日
開館時間:10:30~17:30(入館は17:00まで)
協力:熊谷守一つけち記念館
http://kumagai-morikazu.jp
http://kumagai-morikazu.jp/37th.pdf
□熊谷守一つけち記念館
http://www.morikazu-museum-tsukechi.jp
□『独楽 熊谷守一の世界』藤森武(講談社刊 1976年 装丁:亀倉雄策)
https://nostos.jp/archives/213190
□『独楽 熊谷守一の世界』(世界文化社刊 2000年)
https://www.sekaibunka.com/book/exec/cs/04514.html
□『熊谷守一 クロッキー集 鳥獣虫魚』(神無書房刊 1976年)
https://nostos.jp/archives/203017
>>2000年発行の普及版
https://www.amazon.co.jp/鳥獣虫魚―熊谷守一クロッキー集-熊谷-守一/dp/4873580838