Profile
関 直子 Naoko Seki
東京育ち、東京在住。武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。
二人の女性の仕事と生活の展覧会が開かれている。
一人は今も多くの人に愛されている絵本の作家としても知られる画家のいわさきちひろ(1918-1974)。
もう一人は女性建築家の草分け的存在の奥村まこと (1930-2016)。
二人の出会いは、 いわさきちひろが黒姫に構えた山荘の設計の依頼者と設計者としてだったという。
12歳の年齢差のある二人が経てきた人生の年譜が会場の冒頭にあり、 日本の置かれた状況と文化的な出来事などが併記されている。
1921年 「自由学園 創立」 と 1922年 『コドモノクニ』 創刊が特に目を引いた。
大正デモクラシーが目指した民主主義、 男女平等、 自由教育の萌芽はナショナリズムと軍国主義に飲み込まれ、 敗戦後まで封じられた。
いわさきちひろは、 画家への夢があったが親の意向で20歳の時に婿養子を迎え、 翌年夫の自殺で最初の結婚は不幸な終わりを迎える。 やがて日本は戦争に突入した。
空襲で実家が焼失し敗戦を迎えたちひろは、 27歳で自立して絵描きへの道を歩みはじめる。 そして7歳半年下の若いコミュニスト・松本善明と出会い再婚する。 31歳の時だった。
戦後まもなく自由学園に入学した奥村まことは、 卒業後女性としてはじめて東京藝術大学の建築科に進学、 その後は恩師である吉村順三の設計事務所に入所し建築家として仕事をはじめる。
建築科の先輩で事務所の同僚だった奥村昭雄と結婚した際、 夫婦間のとりきめを、 夫婦共に対等な立場として生活できるようにと二人の 「憲法ノート」 に列挙している。
「社会主義社会の建設と、 お互いの人間的昂上及び建築家としても完成にむかって努力する。 生活のすべての面で科学的であること」 と前置きし、 健康管理、 家事労働、 経済的問題、 対外関係など共に生きることの指針になる生活のルールが事細かに何項目にもわたって記されている。
これは、 ちひろと松本善明が二人だけの結婚式を挙げた後、 このような誓約書を交わしたのに似ている。
「人類の進歩のために最後迄固く結びあって斗うこと、 お互の立場を尊重し、 特に藝術家としての妻の立場を尊重すること」
女性が働くことと同時に結婚をし家庭を持つこと、 女性の自立がまだまだ一般的でなかった時代、 このような決意表明を二人ですることが新しい道を切り開く力になったのだろう。
ちひろは結婚の翌年に生まれた長男・猛を育てながら多くの仕事をこなした。
まことも、 吉村事務所に勤務した19年の間に出産し、 独立後も多くの住宅の設計に携わった。
その中の一つがちひろの黒姫の山荘であり、 石神井にあったちひろの自邸の増改築だ。
二人の出会いである黒姫の山荘の展示が充実している。
ちひろは東京の日常の雑事から離れ、 黒姫での生活は創作に専念できた時間だったそうだ。
この山荘で生まれたのが宮沢賢治の 『花の童話集』 (童心社)や岩崎京子の文の 『あかまんまとうげ』 (童心社)のための絵で、 黒姫の自然と山荘の周りに生息する野草がその想像の源だったのだろう。
さて、 奥村まことの暮らしの展示の中に一人娘・まきのためにつくった破れない絵本 「布絵本(まきのほん)」 「浴室でも読める絵本」 があった。 幼い娘のためにつくった布絵本と、 入浴しながらでも読めるように独自に工夫されたビニール製の絵本だ。
食に関しても独特のセンスが光る。
吉村事務所にいた時に同僚に配った 「お菓子通信」。
独立後、 近所の中華料理店 「大三元」 が休業中、 奥村まことが後藤京子 (旧姓:和田) と共に立ち上げた奥村設計所にマスターを招き、 料理を習う会を主催したものをまとめた 「大三元のヒ・ミ・ツ」 という絵入りのレシピ集もある。
自邸兼設計所のキッチンは2畳に満たない狭さだったそうだが、 手の届く所に調理器具を配してまるで “コックピット” のように使いこなし、 独創的な料理をつくったそうだ。
「ジャムとジェリー」 「雑草元年」 「庭農業」 と書き記した文章には、 近所の空き地の雑草を描き、 食物としての可能性を考えていた。 このユニークな発想とユーモアと実行力はどうだろう。
東京・下石神井の 「ちひろ美術館・東京」 では、 「ちひろ・花に映るもの」 展を開催中だ。
ちひろは花と子どもを多くの作品に描いている。
1:花の描写の変遷、 2:花と絵本、 3:ちひろが描いた花と子どもという3つの構成で数々の作品を見ることができる。
黒姫の山荘で描かれた 「花の童話集」 のための作品もある。
そしてベトナム戦争が激化するなか、 アトリエに飾ったシクラメンの花びらに戦時下の子どもたちの姿を重ねて描いた 「戦火のなかの子どもたち」 も展示されている。
この美術館は、 ちひろの死後自邸の敷地の一角に建てられたもので、 数回の増改築を経て内藤廣の設計で今の美術館として再開した。 そして1階の奥にはちひろのアトリエとなった部屋が復元されている。
庭で草花を育て、 アトリエには鉢植えの花が飾られ、 四季折々の花に囲まれた暮らしを楽しんでいたという。
2階の図書室では 「ちひろ 下石神井でのくらし」 という写真展も開催中だ。
ここは1952年にちひろの両親が戦前に買っていた土地に建てた待望の新居で、 親子3人で暮らしはじめた所だ。 残された多くの写真にここでの暮らしの喜びが溢れている。
松本の両親との同居、 高齢のちひろの母を迎えるためと、 そこから2度の増築が行われた。
この2度目の増改築は奥村まことが行ったものだという。
1階には介護の必要なちひろの母の部屋の近くに浴室とトイレ、 キッチンもつくりお手伝いさんの部屋ももう一つ増築されていて、 きっと細々した要望に応えた設計なのだろう。
増築や改築は建築家としては地味な仕事だが師の吉村も方南町にある 「南台の家」 として知られる自邸は、 風呂のない和室二間だけの建売住宅を買い、 10年以上をかけて増改築を繰り返した住まいだった。
吉村順三の有名な言葉に 「建築ははじめに造形があるのではなく、 はじめに人間の生活があり、 心の豊かさをつくり出すものでなければならない。 そのために設計は、 奇をてらわず、 単純明快でなくてはならない」 (1989年) がある。 そしてこうも書いている。
「建築家として、 もっともうれしいときは、 建築ができ、 そこへ人が入って、 そこでいい生活がおこなわれているのを見ることである。 日暮れどき、 一軒の家の前を通ったとき、 家の中に明るい灯がついて、 一家の楽しそうな生活が感じられるとしたら、 それが建築家にとっては、 もっともうれしいときなのではあるまいか」 (1965年)
師からのこういう薫陶を受け、 まことは増改築を行ったに違いない。
いわさきちひろと奥村まことを通して二人の共通点、 結婚、 育児、 仕事を同列に置いた生き方と暮らしに目を向けることは有意義な時間だ。
<関連情報>
□GALLERY A4(ギャラリー エー クワッド)
「いわさきちひろ と 奥村まこと・生活と仕事」展
https://www.a-quad.jp/exhibition/exhibition.html
https://www.youtube.com/watch?v=SXN0HBx9iFI&t=4s
会期:2022年6月3日(金)~9月8日(木)
開館時間:10:00~18:00(土曜・最終日は17:00まで)
休館日:日曜・祝日、8月15日(月)~8月20日(土)
問い合わせ:03-6660-6011 ※受付時間 は10:00 ~ 18:00(休館日を除く)
□ちひろ美術館・東京「ちひろ・花に映るもの」展
https://chihiro.jp/tokyo/exhibitions/01545/
会期:2022年6月25日(土)~10月2日(日)
開館時間:10:00~16:00(最終入館15:30)
休館時間:月曜(祝休日は開館、翌平日休館)
問い合わせ:03-3995−0612 テレフォンガイド:03-3995-3001
□安曇野ちひろ美術館「ちひろ 雨の日 晴れの日」展
https://chihiro.jp/azumino/exhibitions/71945/
https://chihiro.jp/azumino/
会期:2022年6月4日(土)~9月4日(日)
開館時間:10:00~17:00
休館時間:水曜(祝休日は開館、翌平日休館)
問い合わせ:0261-62-0772